そんな酒井さんが世に送り出した“最高傑作”が山口百恵だ。デビューから1980年に電撃引退するまでの8年間、文字どおり二人三脚でヒットを連発。当時の酒井さんをよく知る音楽関係者が振り返る。

デビュー以来、信頼の絆で結ばれていたはずの百恵
デビュー以来、信頼の絆で結ばれていたはずの百恵
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「宇崎竜童、阿木燿子夫妻をブッキングして『横須賀ストーリー』『イミテイション・ゴールド』『プレイバックPart2』を歌わせたかと思えば、谷村新司を口説いて『いい日旅立ち』を書かせて。レコードのジャケット写真は大御所写真家の篠山紀信に依頼したりね。酒井さんはいろんなところに顔が利いて、一流どころのスタッフを集められた。百恵さんが伝説的なスターになれたのは、酒井さんの力があったからなんです」

 だが、華々しい実績の一方で、音楽業界内外での酒井さんの評判は決して芳しいものばかりではなかった。

「正直、酒井さんは音楽や曲作りに関しては素人同然だったんです。だから“手がけた”と言っている曲のほぼすべて……百恵さんの曲だって“誰かにやらせていただけ”ともっぱらです。それなのに手柄を全部、自分のモノにしちゃう。デヴィ夫人を“芸能界のパラサイト”なんてこき下ろして大ゲンカしてみたり、歌手志望の若い男性から“セクハラ訴訟”を起こされたり、音楽と関係ないことでもトラブルを起こすから、周囲の人間もだんだん離れていってね」(前出・元同僚)

どこまでが本当でウソかわからない

 先の音楽関係者も手厳しい。

酒井さんの話は、どこまでが本当でどこからうそかがわからない“天地真理や松田聖子、キャンディーズやTUBEも私が育てた”とも言っていたけれど、実際はいっさい関わっていませんからね。だから、部下や制作現場からは総スカンを食っていたんですよ。テレビや雑誌でペラペラとしゃべっていたアーティストたちとの昔話も、正直、どこまでが本当なのか……。ただ、誰に対しても優しく紳士的で、いつでも“ネタ”を提供してくれるから、マスコミ関係者からの評判はよかったのは皮肉な話ですが(苦笑)」

 それに怒ったのが、誰あろう百恵だった。

引退後、自分とのオフレコ話をマスコミに漏らすばかりか、ありもしない話まで、さも真実かのようにしゃべってしまう酒井さんに、百恵さん側は何度も“やめてほしい”とクギを刺した。でも、酒井さんはそんなのどこ吹く風で。レコード会社退社後は、それが酒井さんの“飯の種”になっていましたからねぇ……」(音楽専門誌編集者)

 かつて写真誌に百恵の“ヌード写真”が流出した際も、“流出の犯人では?”と酒井さんに疑惑の目が向けられたことまであった。

「我慢を重ねた百恵さんも、とうとう絶縁したんです」(同・音楽専門誌編集者)

 ジュディ・オングら多くの関係者が追悼メッセージを送る中、たしかに百恵は“芸能界の父”ともいえる大恩人の訃報にも沈黙したまま……。