フミエ、泣かないよ。泣かない

 やがて戦局は悪化し、父親を残して母と妹と3人で疎開列車に乗り込んだ。間もなく終戦を迎える’45年8月初旬のこと。一成さんは7歳だった。

「家族旅行で以前乗った1等車ではなく、硬いイスの3等車だったので驚きました。通路に座り込んでいる人もいました。“戦争が落ち着くまで一時疎開するだけ”という話でしたが、住み慣れた家に戻ることはありませんでした」

 列車は空襲を受けた。一成さんは母と妹と、学校などの建物や背の高いトウモロコシ畑に逃げ込んで身を潜め、毛布をかぶった。あまりの恐怖に幼い子どもたちはぎゃあぎゃあ泣き叫んだ。

「文恵ちゃん、泣いちゃだめ。泣くのはやめなさい」

 と母がなだめた。

 まだ2歳の妹は、

「フミエ、泣かないよ。泣かない」

 と小さな手を口にあてて声を漏らすまいとした。

母・千代子さん(左)は妹・文恵さん(右)の遺影を見つめて毎朝晩、お経を唱えていた
母・千代子さん(左)は妹・文恵さん(右)の遺影を見つめて毎朝晩、お経を唱えていた
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 何度も空襲に遭いながら列車は8月16日に新京(現在の長春)に到着し、日本の敗戦を知った。車両に天井と囲いのない『無蓋列車』に乗り換え、炭鉱町の撫順にたどりついた。新居は鉄筋コンクリート3階建ての空き家のアパート。日本人女性と子どもばかりの生活が始まった。

「4畳半程度の狭い部屋で3人布団を並べるのがやっとでした。配給は、固い雑穀の『コーリャン』のお粥を1日1回、小さな鍋の底に少しだけ。母はほとんど食べず、僕らに分け与えて、自分は水ばかり飲んでいました」

 それでも妹は栄養失調で次第にやせ細り、寝たきりになった。亡くなる直前、立ち上がってフラフラによろけながらトイレに行こうとする妹に、

「寝たままでおしっこしてもいいよ」

 と母は泣きながら言った。

「妹は9月8日に亡くなりました。本当にかわいそうなことをしました。母は遺体を抱き寄せて“文恵が死んじゃった”といつまでも泣き伏せっていた。生後100日でつくったきれいな赤い着物を着せて棺に入れました。母は火葬して骨だけになった妹の姿に腰を抜かし、“文恵~っ!”とわんわん泣きわめきました。僕と父の部下のおじさんですべての骨を拾ったんです」