東京のキャバレーで失望

 間寛平(本名=間重美)は、高知県宿毛(すくも)市に生まれ、12歳のときに家族で大阪市住之江区に転居した。

 高校では野球部の万年補欠。卒業後は、歌手を目指して東京へ。石原裕次郎、小林旭、宍戸錠に憧れていた。

「笑われるかもしれんけど、日活映画を見ていた僕は、東京のキャバレーに行けば小林旭や裕次郎に会えると本気で思っていたんですわ」

 大阪のキャバレーには、スペシャルゲストとして小林旭や裕次郎が実際に来ていたし、マヒナスターズやロス・プリモスもおなじみだった。

「信じて疑わなかったね。キャバレーで有名な歌手と知り合いになって、『付き人にしてください』と頼めば歌手デビューできると思ったんや」

歌手を夢見て上京。キャバレーのボーイとして働いていた当時
歌手を夢見て上京。キャバレーのボーイとして働いていた当時
【写真】歌手を夢見て上京、キャバレーのボーイとして働いていた当時の間寛平

 向かった先は、日暮里の『スター東京』というキャバレー。その店で中学時代の同級生が何人か集まり、ボーイとして働いていた。7人で8畳間に雑魚寝し、寛平のボーイ生活が始まった。しかし、待てど暮らせど、寛平の働くキャバレーには、裕次郎も小林旭も美空ひばりもやってはこなかった──。

 時は、1970年の大阪万博直前。大阪は、博覧会の準備や工事で賑わっていた。

「大阪にいる中学時代の同級生から『ダンプの運転手が足らんのやけど、うちの会社で働いてくれへんか』と電話があった。わかった言うて、すぐ大阪に帰ったんですわ」

 東京にいても歌手にはなれない。さすがに現実に気づき、あっさりと軌道修正したのだ。

「こういうときには、逆らわずに流れに任せるとうまくいくと思ってた。事件は起きるけど、うまいことなる、とね。キャバレーでの失望もあってすぐ話に乗りましたよ」

 ダンプの仕事はめちゃくちゃ忙しかった。運んだのは工事現場の残土。しかし万博が開催されるとお払い箱に。先行きを案じていると、今度は別の同級生と再会する。

「そいつは、中学を出てから大工の見習いをしていた。話を聞いて大工の仕事がすごく羨ましくなったんですわ。家を建てる仕事は一生なくならんし。それで考えた末に、タイル屋に弟子入りすることにしたんですね」

 タイルは1枚貼るごとに単価を支払われる。その当時でも1日1万円くらいにはなるなかなかおいしい商売だった。

「ところが、きれいに貼ったつもりのタイルが、30分もするとパタリパタリと落ちてくる(笑)。技術もないし、あれは接着剤の配合が難しいんやね。半年間頑張ったけど、一生懸命貼れども貼れども僕の貼ったタイルはパタパタと落ちてしまうだけ。しばらくして仕事に行かなくなりました」

 その後、母親に泣きついて買ってもらったクラウンの中古車でたまたま競艇場に向かう人を乗せてあげたのをきっかけに、白タク稼業を始めた。

「こんなボロい商売ないで」と喜んでいたのもつかの間、寛平のクラウンは大型トラックに追突され、ケガをして入院。ムチ打ちで10日間の入院を余儀なくされた。

 入院中の楽しみといえば、テレビとラジオだけ。横山やすしと西川きよし、桂三枝、笑福亭仁鶴など、「吉本」という会社の芸人がいろいろ出てきて、本当に腹の底から笑わせてくれた。

(好きなことを言えて仕事になるのはええなぁ)

 そんなところに、同級生が見舞いにやってきた。

「俺、こんなんやってみたいんやけど」

 寛平がテレビを指差してつぶやくと、

「ほな、俺紹介したろか?」と言う。聞くと彼がバイトしているディスコに吉本の芸人がよく来るらしいのだ。

 退院後、さっそく友人を訪ね、ディスコの支配人に劇場を紹介してもらった。

 その劇場とは鳳啓助・京唄子、海原千里・万里(上沼恵美子のコンビ)、桂ざこばなどが出演していた千日劇場だった。そこに所属する『すっとんトリオ』というお笑いグループに弟子入りさせてもらったのだ。ところが早々にメンバーの1人が言った。

「コメディアンは、ストリップ劇場から叩き上げなあかん。そこで勉強してきな」

 寛平は、通天閣のジャンジャン通りにあった「温泉劇場」というストリップ劇場に放り込まれたのだった。

飛んできたものは投げ返す

 ストリップ劇場は、セクシーな踊り子さんを見にくる場所である。誰もコント、それも男の芸など見向きもしない。一方でその逆境からのし上がることができれば、実力が認められたといえる。

 ヤジを飛ばしながらパン屑や吸い殻などの物を投げつける観客たちを相手に寛平は芸を続けた。

 そしてしまいには頭にきて、投げつけてきた物を客席に投げ返してやった。高校時代の野球部の腕がものを言ったのか、そのコントロールのよさが評判となり、寛平はいつしか「ジャンジャン通りの若」という愛称で呼ばれる人気者になっていた。

「そこで1年やりました。高校を卒業していろいろな職業についてはみたものの、これほど長く続いたのは初めて。この仕事が自分の性に合っていると思いましたね」

 一方で、酔いどれ客を相手にするだけでは満足がいかないようにもなっていた。子どもやおばちゃんを楽しませる仕事をしてみたい──。

 寛平は、以前見舞いに来てくれた同級生にそんな悩みを打ち明けてみた。すると彼は、

「今バイトしている喫茶店に吉本興業のえらい人がよく来るんや。ママと知り合いらしいからママに言うとくわ」

 友人がバイトする喫茶店で、吉本興業の部長、そして新喜劇の台本を書いている作家先生を紹介され、あれよあれよという間に面談に至り、晴れて吉本に合格。1970年10月10日、寛平は吉本の研修生となったのだ。