借金地獄と大爆笑裁判

 その後、新喜劇の座長として活躍するだけでなく、レコード『ひらけ!チューリップ』で歌手デビューし、100万枚の大ヒットを記録し一躍有名になった。テレビ出演も増え、芸能界のスター街道をまっしぐらに突き進むかに見えた。

 しかし、程なくして先輩芸人や知人など複数の連帯保証人になっていたことがきっかけで、「借金地獄」に陥る。

 若いころから、流れに身を任せてきた寛平は、「甘え上手」でありながら、甘えられることも多く、断れない性格だったのだ。

 そんな中、1985年から放送を開始した関西テレビの『今夜はねむれナイト』から誕生したキャラクター「アメママン」が評判となる。寛平は、借金地獄から抜け出す起死回生の一手として、アメママンをモチーフにした「アメマバッジ」を製作し始めた。

「グッズ販売で大儲けして借金を完済させようともくろんだんだけど、製作した10万個のほとんどが売れ残ってしまった。さらに借金は膨らみ、6300万円を超える借金を抱えてしまったんですわ」

 古くから寛平と仕事している池乃めだか(78)は、実は自分も悪いと苦笑する。

「寛平ちゃんにアメマバッジ作って売ったらええやん、って言うたのは僕なんですわ。まさか、あんなことになるなんて思いもしませんわ(笑)」

 バッジの代金を払えない寛平さんを相手に製作業者は裁判を起こした。

 法廷で裁判官が「アメマとはどういう意味ですか?」とまじめに尋ねたのに対して、寛平さんは「アーメーマー」とギャグを披露。理解できない裁判官が再度尋ねると、再び「アーメーマー」。法廷は爆笑の渦に包まれたのだった。しかしこの「アメマ」、実は偶然生まれたヒットキャラだったと寛平はあっさり明かす。

「ある番組で何でもいいから『決め』のひと言を言え、という企画があって、そこから出た言葉なんですよ。関西では赤ん坊をあやすときに、よく『マンマ、マンマ』と言う。それで僕は勢いで『マンマー!!』と叫んだ。子どもがお腹すいたときの声ですね。そしたら番組の司会者が、『何なんですか、そのアメマって?』。まぁ聞き間違いなんやけどね、そこから『アメマ!』になって、盛り上がったんや」

 池乃めだかによると、寛平の借金取りは劇場まで来ていたという。

「新喜劇の幕が下りると、寛平ちゃんは楽屋側とは反対のほうに行く。『どないしたんや?』と聞くと『舞台降りたら借金取りが待ってるから』って。まさかと思ったら、ホンマにおるんで驚きましたわ(笑)」

 この借金返済生活は、後々まで続いた。

 返済のとき、乳飲み子を抱えた光代さんが寛平と一緒に行くこともあったらしい。

「返済のために街金を回るわけですよ、嫁も一緒に。嫁は相手に『すいません、すいません』と頭を下げながら、腕に抱いた子どもの腕をこっそりつねる。そう、泣かすわけ(笑)。『何とか、今回はこれで許してもらえないでしょうか』って。そしたら、相手は、『わかった、わかった。もういいですから』と。出てくると、嫁は『次、どこ?』って(笑)。たくましいわ、ほんまに」

“お告げ”からマラソン人生へ

 1989年、37歳になった寛平は、突然新喜劇を退団して東京進出することを思い立つ。

 時は平成元年。熱病のように日本中が沸いた漫才ブームが過ぎ去り、時代を席巻した関西のお笑い芸人がみな東京を引き上げた後だった。

 当初は、吉本興業を辞めて東京進出するつもりだったが、東京事務所所長だった木村政雄さんに説得され、東京本社への移籍となった。

 担当マネージャーとなったのは、後に寛平のマラソン企画のパートナーとなる比企啓之さん(58)。当初、比企さんは寛平が東京で売れるのは難しいと思っていたが、次第に印象が変わったという。

「見てたら『あ、この人売れるわ』と直感が働いた。寛平さんと一緒に酒を飲んだりしながら、それは確信に変わったんですね。『笑っていいとも!』に寛平さんが出演したときも、客席はギャグにシーンとしてるけど、タモリさんと僕はゲラゲラ笑っていたんです。いかにスベったかが肝心なんですよ。寛平さんはホームランを打つんですね(笑)」

 東京行きの5年ほど前のある夜のこと。寛平は自分が必死に長い距離のマラソンを走っている夢を見た。

 高校時代、野球部でグラウンドを何時間も走らされたことはあったが、本格的にマラソンをすることなど考えたこともなかった。たまたま早起きした朝、試しに走ってみると想像以上に走れることに自分でも驚いた。それから毎日走るようになった。

 やがて、その噂は吉本興業の関係者にも知られるようになっていく。

 '86年、テレビのプロデューサーに「ちょっと番組で30kmの青梅マラソンを走ってくれないか」と言われ、二つ返事で引き受けた。「3時間以内に完走したらギャラ倍にしたる」という会社役員の言葉に乗った寛平は、必死でゴールを目指し、2時間26分を記録。見事ギャラを倍にしてみせたのだ。

「やりたいことがあれば、その場で決める」と寛平。見切り発車の人生選択をしてきた 撮影/伊藤和幸
「やりたいことがあれば、その場で決める」と寛平。見切り発車の人生選択をしてきた 撮影/伊藤和幸
【写真】歌手を夢見て上京、キャバレーのボーイとして働いていた当時の間寛平

 さらに、「ホノルルマラソンで郷ひろみの3時間36分の記録を抜いたら100万円。ついでにギャラも倍」という賭けにも挑戦し、見事3時間13分でこれまた勝利。

 次第に、ある世界的な大会に目を向けるようになる。「スパルタスロン」という毎年9月にギリシャで開催される、246kmを一気に走破するレースだった。紀元前490年に起こったアテネとペルシャによる「マラトンの戦い」で、アテネ軍の使者がスパルタに援軍を頼むため、246kmを一昼夜で走り抜けたという故事にちなんだ大会だ。

 寛平は、'88年「スパルタスロン」第6回大会に初参加、しかし141kmでリタイア。続いて'90年第8回大会、191kmで再びリタイア。そして'91年第9回大会で見事35時間4秒のタイムでゴールしたのだった。

 2回目のスパルタスロンの挑戦は、1時間半のドキュメンタリー番組にまとめて放映された。

 実は、この寛平の挑戦を番組にしたいと思ったのは、マネージャーの比企さんだった。しかし、寛平だけではなかなか企画が通りにくい。そこで制作会社の「もしも、さんまさんが出てくれるならなぁ」という言葉をそのまま寛平に伝えたのだという。寛平は、さんま本人に直談判し、番組出演を承諾してもらったのだ。

 比企さんが言う。

「制作会社は、もし寛平さんがスタート直後にリタイアしたら番組として成立しないけど、さんまさんがいたらギリシャの旅番組にすればいいと(笑)。スパルタスロンで僕は寛平さんの走りをずっと見ていて、これはドキュメンタリーになると確信した。そこから、24時間マラソンの発想が生まれたんですね」

 その後、寛平は、'92年に『24時間テレビ』の初代チャリティーマラソン走者に抜擢され、'95年には阪神・淡路大震災の復興支援に感謝の意を表した神戸─東京間約600kmのマラソンを敢行した。