おばあちゃんは、私が生まれる前から殺人犯だった

 小学1年生のとき、実母Mさんが家を出た後、くうがさんを育てたのは、祖母であるOさんだった。

「私は根っからのおばあちゃん子でした。小さいころは、おばあちゃんを“お母さん”と呼んでいましたね。そしておばあちゃんの娘、つまり私のおばさんにあたるRは、6つ上で、お姉ちゃんのような存在。3人の暮らしは、すっごく楽しかったです」

 当時の祖母の様子をくうがさんは、回想する。

「おばあちゃんは、心配性なくらいの過保護でした。私の洋服もブランドものばかり。いつもゴハンを作ってくれて、私はナス味噌炒めが大好きでした。けれど私が小4のころ、おばあちゃんの体調が悪いという理由で、児童相談所の一時保護施設を経て、児童養護施設に預けられることに。家には戻りたかったけど、施設はきれいだし、学校にも通って、みんなきょうだいみたいな感じで、友達もたくさんいてすごく平和でした。母親も徐々にですが、会いに来てくれるようになりました」

 しかし2006年5月、くうがさんが中学1年生のとき、その事件は起こった。

「お母さんがいきなり施設に現れて“おばあちゃんがRを殺した”って……」

 アパートからは、白骨化したRさん(享年19)の遺体と、首をつった男性の遺体が発見され、さらにはOさんの長男で1984年に行方不明となった男児(失踪当時6歳)の白骨化した遺体、液体化した嬰児の2体の遺体も見つかった。これが世間を震撼させた「平塚5遺体事件」である。

「優しいおばあちゃんと凶悪犯のイメージが結びつかないんです」

 くうがさんは苦悶する。さらに複雑なのは、失踪したとされていた男児と嬰児の2体の遺体の存在だ。

「私が生まれる前から、おばあちゃんが彼らを殺していた、つまりおばあちゃんは、私が生まれる前から殺人犯だったんですよね。どんな気持ちでおばあちゃんは私と接していたのか……」

 言葉を詰まらせる。

「その後、事件を知る人からは、“亡くなった人の分も長生きしないとダメだよ”とよく言われました。でも私は母親とケンカしたり、うまくいかないことばかり。Rが亡くなった年を自分が超えてからは、余計にプレッシャーを感じ、生きる意味がわからなくなった。母とケンカするたびに、“私がRの代わりに殺されたらよかったんだ!”と口にしていました

 事件後、くうがさんの人生は、さらに壮絶さを増した。

「事件後、中1で養護施設を出て母親と暮らしたのですが、折り合いが悪くて、即家出しました。地元で声をかけられた男の人の家についていったら、複数人に羽交い締めにされて、覚せい剤を打たれて、軟禁されたんです。正直、記憶は曖昧なのですが、1か月間、ほぼ毎日性的暴行を受けていました」

 体重は30kg台まで減り、命からがら帰宅したくうがさんを待ち受けていたのは、児童相談所のケースワーカーと大勢の警察だった。

「帰宅した翌朝、覚せい剤使用で逮捕されました。取り調べでDNA検査があったのですが、警察の人から“殺人犯のおばあちゃんのDNAを受け継いでいるかもしれないからね”と言われたことは絶対に忘れません。私は当時13歳だったので教護院(児童自立支援施設)に送られました。ここでの生活は地獄、教員のイジメや体罰が日常茶飯事だったんです」