平成元年の7月11日、中森明菜(当時23歳)が近藤真彦(当時24歳)の自宅で自殺未遂。その年の大晦日に“金屏風会見”を開いた
平成元年の7月11日、中森明菜(当時23歳)が近藤真彦(当時24歳)の自宅で自殺未遂。その年の大晦日に“金屏風会見”を開いた
【写真あり】今見ると泣ける……近藤真彦におんぶされ笑顔の中森明菜

 1982年7月にはセカンドシングル『少女A』がヒット。同年11月にリリースしたサードシングル『セカンド・ラブ』では、オリコンランキング1位を獲得。一躍、スターへと駆け上がる。

 しかし、念願の歌手となった明菜の心は満たされない。

歌手になりたいって思ってるときは“今が幸せ”って全然思わなかったのね。“歌手になったら幸せなんじゃないかな”ってずっと思ってたの。でもなってみて初めて、あのときが幸せだったってわかるの》(『JUNON』1989年9月号)

 なぜなのか。

「朝から晩まで働いて、夜に自宅に帰って自由になるのは2~3時間ほど。ひとたび外出すれば、ファンに囲まれて大騒ぎに。自分の意見をしっかりと持っている子でしたから、いろいろと提案していましたが、マスコミには“ワガママだ”と書かれてしまう。そんな自由のない生活にうんざりしていたのかもしれないね」(元レコード会社関係者)

活動休止と再開を繰り返し…

 1989年7月には、7年間にわたって交際していたマッチこと近藤真彦の自宅マンションで自殺未遂を図る。近藤の裏切りによって終わった恋が、明菜を長らく苦しめた。

「マッチに裏切られ、芸能界から離れたいという思いが強かったんじゃないかな。明菜さんは“歌をやめて家庭に入りたい”ともよく言っていました。自分を求めてくれる、たったひとりの人を探していたと思います。ただ、みんなで食事をしているときにテレビにマッチが写ったら、明菜さんは必ず席を外していました。平気なフリをしつつも、ずっと引きずっているんだなとは感じました」(ファッション誌編集者)

 1990年代には連続ドラマにも出演してたが、最愛の母親の死、度重なる裏切りに遭い、家族とも距離を置き、孤立していく。

「1991年にリリースした『Dear Friend』や1993年の『愛撫』などがヒットしましたが、80年代のような勢いはありませんでした。事務所の移籍を繰り返し、レコード会社からは契約解除を言い渡されて……。自分自身を模索する時期でもあったのでしょうが、彼女はずっと空虚な思いを抱えていたように感じます。なんで幸せになれないのか。なんでうまくいかないのか……と」(音楽ライター)

 葛藤する明菜の心情はこんな言葉になって表れていた。

《タレント・中森明菜を続けているせいで、隅に押しやられた本当の明菜は、夢を持てないまま、ぼんやりしているんです》(『JUNON』1995年9月号)

 母親に褒められたい。認められたい。そんな思いから出発した歌手活動だったが、目標を見失っていた。だが、2000年に入ると少しずつ歌うことへの新たな意味を見出していく。

《今まで、本当に、歌っていて楽しい、と思ったことは一度もないんですね。人を喜ばせたい、喜ばせたいばっかりだった。でも、今は、私が喜んでいたら、自然とみんなも喜んでいく。そういうふうにできたら、本当の意味で、歌っていて楽しいだろうって思えるようになりました》(『コスモポリタン』2002年7月号)

 2002年の年末には、14年ぶりにNHK紅白歌合戦に出場。精力的にライブ活動などを行っていくが、またしても暗転する。

「2010年に無期限の活動休止を発表します。2014年の紅白ではニューヨークからの中継で出場をして活動を再開。しかし、2017年に行ったディナーショーを最後に、また活動を休止します。2018年には新曲をリリースする……なんて話もあったのですが」(前出・スポーツ紙デスク)

 歌うことの意味を見出した明菜だったが、もはや身体がついていかなかったのか――。

 27年間、明菜と会っていないという3つ上の実兄は、こんなエピソードを明かす。

「明菜は自分の曲の中で最初は『バビロン』がお気に入りだったようですが、途中から『ミ・アモーレ』の曲に違う歌詞を載せた『赤い鳥逃げた』が一番好きだと言っていました。もう何十年も前の話ですが、“歌詞がいいのよ”って明菜がよく話していたのを覚えています」

 鳥かごを抜け出し、私たちの前に姿を見せる日は訪れるのか。