常識にとらわれないパッケージと味

 甘味茶寮川村オープンから数か月後の'06年11月、本格洋菓子と喫茶『マダムシンコ』はオープンした。雨が降る中でも行列が途切れることはなく、その姿を見た信子会長は、感謝の気持ちから、急きょ、手作りの「サービス券」を配り出したほどだった。

 だが、こうしたケーキ業界の慣例にない接客態度に反発したのが、ほかならぬ自社のパティシエたちだった。

「そんな品のない売り方をするな」

 ところが、 元銀座のママが手がけた洋菓子店に大行列──という話題を嗅ぎつけたテレビ番組が取材に来た。近い将来、パティシエたちとは袂を分かつだろう。そんな予感からか、信子会長と幸治さんは、彼らが作った洋菓子ではなく、焼きたてのバウムクーヘンを紹介する。放送後、それを目当てに再び行列ができたことは言うまでもないだろう。

「そしたら阪急百貨店のバイヤーさんから、催事に参加しないかと誘われたんです。でも、焼きたては1日に700個しか作れない。バイヤーさんと相談して、あえて新しいバウムクーヘンを作って出しましょうとなったんです」

 パッケージは、業界で通例となっているオレンジを採用するべきだと言われたが、

「右も左もオレンジばかりで見分けがつかへんやんって。私はピンクで勝負したかった」。

 方向性の違いから、やはりパティシエたちは辞めていき文字どおり二人三脚で開発と製造を手がけた。冷凍状態でも美味しく食べられるバウムクーヘンなら1日700個の壁を越えることができる。いや、信子会長の言葉を借りれば、「壁は乗り越えるものではなく、ぶち破らなあかん」。人生だけでなく、常識もひっくり返したバウムクーヘン『マダムブリュレ』が誕生した瞬間だった。

「とにかくたくましい方」

 そう信子会長を評するのは、アパホテル・元谷芙美子社長。プライベートで食事をするなど、親交を持つ仲でもある。

「私も実業家だと言われるけど、私は主人である会長のおかげで今があるわけで、私でなくてもよかったかもしれない。でも信子さんは、たたき上げで実業家になられた。本当にすごいことだと思います」(芙美子社長)

 運命のいたずらに翻弄されながらたどり着いたマダムブリュレは、信子会長と幸治さんの結晶体。わが子同然の商品が、飛ぶように売れていく姿を見て、「我慢はやっぱり大事やねん。諦めたらあかんね」と、自らに言い聞かせたという。

 常識にとらわれないパッケージと味は、多くのファンを生み出し、信子会長の竹を割ったようなキャラクターもあいまって快進撃を続けた。全国の催事ではスピード完売、楽天スイーツランキングでは1位を独走。あの日、途方に暮れている中で膨らみ続けた、莫大な借金も返した。

人気商品「3色食べ比べセット」は、売り上げのうち70%をウクライナ人道支援に寄付している 撮影/山田智絵
人気商品「3色食べ比べセット」は、売り上げのうち70%をウクライナ人道支援に寄付している 撮影/山田智絵
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 幸治さんに、なぜ逃げ出さずに苦難に立ち向かえたのか、聞いてみた。

「僕を会社の社長にして対外的に信用力をつけてくれた以上、投げ出してしまうと、僕の人生も終わってしまう」

 そう正直な気持ちを吐露するが、こうも続ける。

「会長は、焼き肉店時代をつらい思い出としてとらえていると思うのですが、僕は……むしろ楽しかったんです。僕は、それまで夜の世界で仕事をさせていただいて、その間も俳優の夢を諦めることができず、いろいろなオーディションを受けていました。でも、うまくいかなかった」(幸治さん)

 飲食業は、正直な世界だと思った──。

「オーディションは、理由もよくわからずに落とされる。でも、飲食業は自分が頑張った結果が見えやすい。自立して商売をしているんだという感覚が新鮮でしたし、お客様の喜ぶ顔を見るとやりがいを感じました。投げ出してしまったら、いろいろなものを失ってしまう。会長がいれば、きっといい方向に行くと思っていました。大変な時期でしたが、二人三脚のパートナーがママで本当によかったです」(幸治さん)

 幸治さんが、信子会長に対して親しみを込めて話すとき、銀座時代の名残から「ママ」と呼ぶ。焼き肉店時代の話をすると、幸治さんの口からはママという言葉が自然とこぼれる。