「ラモス、日本に帰化しなさい」代表選手へ

 つらいリハビリを支えたのは、当時の交際相手であり、後に結婚することとなる初音さんだった。

「4か月間、私のわがままで来させなかった1日を除いて、毎日来てくれました。その1日は、今振り返っても人生で一番長く感じました」

 そんな初音さんと順調に愛を育み、'84年にサンパウロで婚約式を挙げ、ふたりはともに人生を歩んでいく。

 その後も日本でのプレーを続けたラモスだが、実は当時、別の夢を抱いていた。

'86年に、コーチとして来ていたジノ・サニさんに“おまえの夢は何?”と聞かれ、“ブラジルに帰って、自分の力がどこまで通用するのか試したい”と伝えたら、“来年ブラジルに帰るから、一緒に来いよ”って。うれしくて初音ちゃんに話したら“いいじゃない”って言ってくれたんですけど、 “ちょっと待てよ”と。初音ちゃんは、ひとり娘。私がブラジルに連れていったら、誰が両親の面倒を見るのかなって思った。面倒を見る人がいなくなるのは絶対に嫌だったから、ジノさんに事情を説明して、お断りしました

 すると、コーチから思わぬ反応が。ラモスの人生は、ここで大きなターニングポイントを迎える。

「ジノさんから“おまえ、すごいな。じゃあ、読売クラブはおまえにとって何?”と聞かれ、“家族です”と伝えたら、“ラモス、日本に帰化しなさい”って言われました。えっ? て思ったけど、“おまえが帰化したら外国人枠が空いて、優秀なブラジル人を1人連れてくることができるから”と言われて。当時、読売クラブはアジアクラブ選手権で優勝を狙えるレベルになっていて、世界で勝てるチームにするために帰化を勧められたんです。恩返しできるのであればと思い、“わかりました、絶対します”と。だから、初音ちゃんの両親への思いと読売クラブへの恩返しが、私の帰化の理由です」

 '89年に日本に帰化し、'90年には日本代表に選出された。しかし、代表に選ばれるとは思っていなかったという。

日本代表では、三浦知良や現・日本代表監督の森保一、柱谷哲二らとともに世界と戦った
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【写真】ラモス瑠偉が歩んできた栄光の歴史 キングカズとの肩組みショットも

「日系人ならわかるけど、こんな髭も髪も長い人間じゃ、あり得ないなって。呼ばれたときは、めちゃくちゃうれしかったですよ。代表入りしたからには、まずはアジアでナンバーワンになりたいなと思いました。'92年のAFCアジアカップでそれを叶えて、翌年にはW杯予選に出て」

 ラモスは当時の日本代表最年長得点を記録するなど、大活躍。先頭に立ってチームを牽引(けんいん)したが、最終イラク戦で試合終了直前に同点に追いつかれ、本大会出場を逃した。俗に言う“ドーハの悲劇”だ。

「神様が、“プロになったばかりでまだまだ早い。これからの日本のサッカーは、おまえら次第だぞ”って言ってくれたのかも。ただ、私は予選を突破しても、本大会に出場する気はありませんでした。すでに36歳。日本がW杯に出場するために、多くの犠牲を覚悟してプレーしていたので、身体はボロボロでしたから」

 それでも、日本代表として戦ったことは、かけがえのない体験だった。

ラモス瑠偉の引退試合(1999年8月)
ラモス瑠偉の引退試合(1999年8月)

「日の丸を背負って世界と戦うなんて、これ以上名誉なことないんだよ。今、若い人たちはわかってるかどうか……。国を背負って戦うってことは、やっぱりすごいこと。自分のチームでは80%、90%でプレーしててもいいけど、代表では120%を出さなきゃいけない」

 熱い気持ちを胸に長く第一線で活躍したラモスは、41歳で引退を決断。引退後は指導者に転身する。'06年に古巣・東京ヴェルディの監督に就任すると翌年、J2に落ちていたチームをJ1昇格に導く。

「最高ですよ。ヴェルディは、J2にいるチームではないと思っていましたから。愛してるクラブだから、最後になんとか恩返しがしたかった。メンバーもすごくよかった。まあ、メンバーがそろったのは私の力だけどね(笑)」