常連だった円楽さんの変化に気づいた蕎麦屋店主

 30年間通い続けていた蕎麦店『丸喜家』の店主も、円楽さんの変化に気づいていた。元気なころの様子について、こう語る。

「だいたい月に2回くらい通っていただきました。キープしている焼酎ボトルがあって、まずはそれを1杯飲んでから、『鶏南蛮そば』にお餅を2つトッピングして食べるのがお決まり。凝り性なんでしょうね、ほかのメニューは頼みませんでした」

円楽さんが30年愛した『丸喜家』の鳥南蛮そば、餅2個入り
円楽さんが30年愛した『丸喜家』の鳥南蛮そば、餅2個入り
【写真】円楽さんが30年愛した蕎麦屋のキープボトルに書かれた文字とは…

 そんな円楽さんに異変を感じたのは、今年に入ってからのことだった。

「最後に来たのは、今年の5月くらい。30年間ずっと残さずに食べていたのに、その日はお餅も入れず、そばを初めて残したんです。“残しちゃって悪いね、もう食べられないんだ”と言っていました。その後は車イス生活でしたが、こんなに早く亡くなるなんて思いませんでしたよ……」(蕎麦店『丸喜家』店主)

 元気な笑顔を近くで見守って来た人たちも、驚きと悲しみを隠せない様子。近所にある医療クリニック『永岡医院』の永岡喜久夫院長は、持病の喘息がある円楽さんを長らく支えていた。

「地方公演に行かれるときなどに、点滴を受けに来ていただきました。かれこれ30年ほどのお付き合いでしたね。芸能人だし多忙なはずだけど、ワガママなんていっさい言わず、いつも朝6時に予約のために診察券を持って来院していました。ドテラを着て来たり、まったく気取らない様子でしたよ。読書家で、点滴中はいつも本を読んでいました」(永岡院長)

 誰に対しても気さくな姿勢を崩さなかったが、落語のことになると表情が変わった。

「以前、公演に呼ばれて挨拶するために楽屋へ行こうとしたんですが、円楽さんは開演1時間前から精神統一をしているので、入れませんでした。そのときだけは、普段の気さくな円楽さんと違いましたね。最後に来院したのは、高座復帰した前日の8月10日。そのころは食事がもうほとんど喉を通らない状態で、栄養剤を飲んでいました。衰弱しているのがわかったから、私も心配で、当日はスタッフみんなで見に行きました。奥さんは、そんなときでもチケットを手配してくれて、駐車場まで予約してくれました」(同・永岡院長)

 10月2日放送の『笑点』の冒頭では、司会の春風亭昇太が「円楽さんは、回答で世間を厳しく風刺したり、時には恥ずかしそうにダジャレを言ったり。歌丸師匠や私、司会者とのバトルで、大喜利を大いに盛り上げてくれました」と追悼の言葉を述べた。きっと天国でも座布団の上から、いたずらっぽい表情を浮かべながら笑っているに違いない。