そんな岩橋に、神宮寺は寄り添い続けた。岩橋脱退後、多くを語らない神宮寺だったが、彼の思いは随所に表れている。キンプリは、岩橋の休養中もパフォーマンスの際に彼の場所を空けてダンスをしたり、脱退しても岩橋のメンバーカラーであるピンクの照明を入れる演出をしたりといった行いがあった。これは、コンサートの演出を担当する神宮寺の優しさが透けて見えるようだった。

 優しく繊細であるからこそ、多くのことに気づき、それがときとして障壁にもなる――。それは、彼らに共通した気質かもしれない。繊細さ、責任感、目指すものが大きいゆえの苦悩。彼らの中にはきっと“完璧なアイドル”としては普段見せない、「生きづらさ」があったはずだ。そしてその深い思考があったからこそ、少しづつボタンの掛け違いが起こっていったのではないだろうか。

ジャニー喜多川が予感していたこと

 だが――と思う。もしかしたら、最初からその“掛け違い”に気づいていた人はいたのかもしれない。

 キンプリのCDデビューは、平野がジャニー喜多川に直談判したことがきっかけとなっている。しかし、そのときにジャニー喜多川から返ってきた答えは、「ソロデビューの可能性も考えてみたら?」だった。

 それでも平野は「僕には考えられなかった。僕の中では6人のときがいちばん手応えを感じていたんで」と、グループのメンバーに相談し、今度は6人で直談判にいったのだという。

「今思い出しても直談判は地獄でした。ブチギレる社長と、しどろもどろに話す僕。めちゃめちゃ怖かったです」(『Myojo』2022年7月号)

 表現の仕方もあるだろうが、ジャニー喜多川が“ブチギレる”エピソードはなかなかない。それに平野はすでに単独でCM出演や映画出演を果たしていたし、当時の彼らの人気と実力があれば、直談判すれば社長もすんなり受け入れ、喜んでデビューさせたのではないかと思われた。

 だが、デビューには至ったものの、“ブチギレ”られていたのである。

 ジャニー喜多川は、基本的に、グループのメンバーやデビュー時期に至るまで熟慮に熟慮を重ね、すべて自らの感覚で決めると言われている。その感覚が優れていることは、これまでの数多のグループの成功が証明しているだろう。

 なぜ彼は、相当にその将来を信じ、“最後のお気に入り”とも言われた平野やキンプリのメンバーたちにブチギレたのか。

 もしかしたら、ジャニー喜多川はどこかで気づいていたのかもしれない。彼ら6人が抱えていたものを、そしていつか自分がいなくなった後に、“最愛の息子たち”が道を分かれてしまうことを――。

 しかしジャニー喜多川は、答えを導き出すことをタレント自身に託す人だった。生前最後にデビューさせた「King & Prince」を残す道を選んだ者、「ジャニーさんと見た夢」を自分の中で熟成させていく者。それぞれの思いを貫いた彼らの選択を、決して否定はしないだろう。


霜田 明寛(しもだ あきひろ)Akihiro shimoda
ライター/「チェリー」編集長
1985年東京都出身。国立東京学芸大学附属高校を経て早稲田大学商学部卒業。9歳でSMAPに憧れ、18歳でジャニーズJr.オーディションを受けた「元祖ジャニヲタ男子」。3冊の就活・キャリア関連の本を執筆後、ジャニーズタレントの仕事術とジャニー喜多川氏の人材育成術をまとめた4作目の著書『ジャニーズは努力が9割』(新潮新書)がベストセラーに。また、文化系WEBマガジン「チェリー」編集長として監督・俳優などにインタビューする。SBSラジオ(静岡放送)『IPPO』の準レギュラーや、映画イベントの司会も務めるなど、幅広くドラマ・映画・演劇といったエンターテインメントを紹介している