胴上げで感じた手のぬくもり

 ケニアの留学生をスカウトする際に重視したのはキャラクターだった。

「ただ単に走力だけではなくて、日本の文化になじめるか、チームに溶け込めるかを重視していましたね」

 それはオツオリさん、イセナさんと入れ替わりで入学したステファン・マヤカさんを見てもよくわかる。

「マヤカは最初に会ったとき、屈託のない笑顔が印象的でね。とても陽気で人を惹きつける魅力があったんです」

 マヤカさんは「上田先生に騙(だま)されて日本に来た」と冗談を言うが、来日直後は日本語がよくわからず、慣れるまではいろいろと苦労したそうだ。

「やっぱりあいさつすることが大事。諦めずにあいさつすれば、相手も変わってきますよ」(マヤカさん)

 彼の買い物を断ったことがある八百屋さんがフルーツを差し入れてくれたり、お風呂で避けていたおじいちゃんが背中を流してくれたり、だんだん周囲が優しくなったとマヤカさんは言う。そんな留学生たちに上田さんは、

「オツオリやマヤカら留学生には、駅伝とは何か襷とは何かをよく話しました。襷は“団結と絆の象徴”だと思うんです。練習を積み重ねて時間を紡いでこないと絆はできない。選手が同じ目標に向かっていくなかで団結が生まれるんです。留学生もそれをきちんと理解していて、チームとして走る喜びを感じていたと思います」

「2か月でケニアに帰るつもりだった」という、大学入学直前のマヤカさんと
「2か月でケニアに帰るつもりだった」という、大学入学直前のマヤカさんと
【写真】'92年の第68回大会で初優勝を果たした。パレードの様子

 マヤカさんの箱根駅伝デビューは、連覇を狙った第69回大会('93年)。花の2区でいきなり区間賞を獲得する。しかし圧倒的な戦力を誇る早稲田大学が優勝。山梨学院大学は惜しくも総合2位となる。

「初めての2位と、一度優勝した後の2位というのは気持ちが全然違います。大学は選手が入れ替わるので勝ち続けるのは本当に容易ではありません」

 雪辱を果たそうと挑んだ'94年の第70回大会。やはり早稲田大学が優勝候補と目されていた。1区で早稲田大学に先行されるも、2区のマヤカさんが区間タイ記録の快走で逆転。そのままトップを維持して往路を制す。

 復路の勝負どころは9区だった。託されたのは前年に区間賞を獲得したキャプテンの黒木純さん(現・三菱重工マラソン部監督)。

上田さんはコーヒーとワイン好き。合宿などにはコーヒー道具一式を持参するこだわりよう 撮影/渡邉智裕
上田さんはコーヒーとワイン好き。合宿などにはコーヒー道具一式を持参するこだわりよう 撮影/渡邉智裕

「実は区間新記録を狙っていたんです。でも直前に上田先生から電話がかかってきて『記録なんていきがって狙うなよ』ってアドバイスをもらいました。それで緊張がほぐれて落ち着いて走れました」(黒木さん)

 しかし2位早稲田大学の選手が猛烈に追い上げてくる。黒木さんは上田さんがゼッケンの裏に書いてくれたメッセージを思い出していた。

《苦しくなったら思い起こせ。耐えし日々と支えてくれた人を。そして淡々と泰然と》

 その言葉どおりの冷静な走りで最後は早稲田大学を突き放す。アンカー10区は、後に北京五輪マラソン日本代表となる尾形剛さんだ。盤石の走りで一番に大手町へ駆け込む。史上初めて11時間の記録を破る好タイムで、山梨学院大学は2度目の優勝を遂げる。

「2回目の胴上げはたくさんの手のぬくもりを感じました。初優勝のときはワーッと宙を舞って目の前に広がった青空を見ていましたが、このときは胴上げって何のためにやるのかなと考えていました。それは胴上げを支える人たちが『支えているこの手があったからだと感じてください』と伝えるためのセレモニーだと思うんです」

 連覇を目指した翌年の箱根駅伝は、早稲田大学と激しいデッドヒートを繰り広げる。1、2区で先行するも3区で逆転され往路2位。復路6区でトップに立つが8区でひっくり返され、9区で再び抜き返して最後10区は逃げ切った。

「目まぐるしく順位が入れ替わって気が気じゃなかった。3度目の優勝はやっと勝てたという思いが強かったですね。一度勝つと守勢に転じてしまう、切り替えの難しさを感じました」

 ちなみに連覇に貢献したマヤカさんは、日本国籍を取得して真也加ステファンさんに。現在、桜美林大学の監督として、箱根駅伝出場を目指し奮闘している。