バブル崩壊後にアジアが注目

 ここ近年、芸能人の海外移住が話題になっている。欧米だけでなく、シンガポールやマレーシアなどのアジアも対象だ。

 もっとも金銭的に余裕のある芸能人であれば、それこそ「悠々自適」なセカンドライフが待っているだろうが、移住した日本人たち全員が必ずしも理想どおりに生活できるとは限らない。

 年金生活者の海外移住が日本で話題になり始めたのは1980年代半ばだ。

 当時はスペイン南部の地中海に面する海岸線など欧米を中心に日本人たちが住んでいたが、日本でバブルが崩壊した1990年代初頭以降は、タイやマレーシア、フィリピンなどの東南アジア諸国が経済成長を遂げ、年金生活者の移住先として注目され始める。

 時期を同じくして、日本全国津々浦々でフィリピンパブが活況を呈し、パブを入り口にして南国へと渡る日本人男性が増えた。その一部がやがて困窮し、フィリピンを終のすみかとするのだ。

 だが、彼らが日本に帰国していたとしたら、それで幸せになれるかといえば、また話は別だ。

困窮邦人の最期

 日本人観光客が多いマニラの歓楽街マラテ。その一角に、覚醒剤を密売するスラム街がある。そこに住む1人の困窮邦人が今から7年前、息を引き取ろうとする場面に、私は居合わせていた。

「イテテテテ」

 床ずれで苦痛に顔をゆがめているのは田中昇さん(61歳、仮名)。顎には白い無精ひげ、白髪交じりの髪の毛はぼさぼさだ。腰を痛めていたため、ベッドで寝たきり状態だった。

 田中さんの「本業」は、夜の歓楽街に入り浸り、日本人観光客を相手にした「観光ガイド」だ。小金がたまると、事実婚のフィリピン人の妻、クリスティー(46歳)と一緒に覚醒剤を吸引していた。

「大麻は酔っ払った状態になるから俺の身体に合わへん。目が覚める覚醒剤のほうが合う。昔は毎日やってたけど、もう年やから、最近はたまにしかやらへん」

 大阪府出身。関西の有名私大を卒業後、証券マンとして働いていた。30代で退職した後は、知人の誘いで1992年、フィリピンへ渡り、ゴルフの会員権を在留邦人に販売する仕事に従事した。一度は日本に帰国したものの、やはり肌に合わないと南国へ戻ってきた。以来、フィリピンで20年以上、不法滞在を続けていた。

 田中さんは日本に帰りたくない理由をよく、こう語った。

「もし日本に帰ったらおふくろが『あんた何のために大学まで出したと思っとんの!』ってまず言うわ。そしたら一緒に住んでいる妹2人も『まったくや!』みたいになるやろ? 

 そんなことを飯のときにでも言われたらかなわんで。それが日本に帰れん理由やわ。要するに、日本にはもう居場所がないいうことや」

 日本で居場所を失い、フィリピンへ。待っていたのは困窮生活だったが、こと田中さんや吉岡さんは周りにフィリピン人がいたため、お金がなくても何とか生き延びてきた。

 逆にこの2人よりお金があっても、現地人との接点がなく、あげくは孤独死してしまう日本人は少なくない。

 田中さんが息を引き取った直後、クリスティーは電話口で泣きじゃくっていたが、最期まで彼に寄り添っていた。

「このままマニラにおってもどうしようもないなあと思いながら、いまだに生きている。お金があっても日本には帰りたくないわ」

 田中さんが豪快に語った言葉が懐かしく思い出される。

水谷竹秀(みずたに・たけひで)●ノンフィクション・ライター。1975年生まれ。上智大学外国語学部卒。2011年『日本を捨てた男たち』で第9回開高健ノンフィクション賞を受賞。10年超のフィリピン滞在歴をもとに、「アジアと日本人」について、また事件を含めた世相に関しても幅広く取材している

(取材・文/水谷竹秀)