2人の息子、立嗣と南朋

 少し時を戻して、1979年。金粉ショーで資金も潤沢に増やし、真っ赤な3階建ての稽古場・豊玉伽藍を練馬に構えた。そのころのことを、南朋さんはよく覚えている。

「豊玉伽藍には何度も行きました。キャッチボールもしました。でも親父が白塗りで近づいてくると怖くて泣いてた。大きくなると、うちの父親は他の家庭とはちょっと違うことに気がついて、友達には親父はサラリーマンだって嘘ついてました(笑)」

 2人の息子の名前は麿さんが名付けた。

「立嗣は、机の上に龍が立つイメージから龍机(タツキ)としたかったけど、役所でダメだって言われてね。響きの近い立嗣(たつし)に。南朋は、なんとなく呑気(のんき)そうだったから、南という字を使おうと。字画はよく考えました。僕の本名、大森宏は字画が最悪なんだ。だから悪いことばかりあったんだろうと気にしていたからね」

 しかし、大駱駝艦が充実するほどに、家族での時間は減っていく。立嗣さんと南朋さんが中高生のころは麿さんとはあまり行き来はなくなった。

 再び交流が始まったのは、それぞれが高校を卒業したころからだ。大学で映画を作り始めた立嗣さんは、そのころになって改めて、父親である麿さんに「この人は一体何なんだ?父親だけど何者なんだ?」と興味を持ったという。

 麿さんとしても息子たちとの距離感は独特のものだ。

「疎遠にしてましたからね。大きくなってお互い付き合えるようになり、2人とも親父って呼んでくるから、おまえたちが親父だと思ってるなら、親父ってことにしておいてやるという感じです」

 世間一般の親子関係とは少し違うようだ。

「ただ、遠目では何してるかは知っててね。立嗣は学生のころから映画を撮っていたから、やりたいことがあるんだなと思って見ていたけど、南朋はフラフラしてたから、踊りの稽古でもしろと言ってみたことがあるんです。一度だけ白塗りで舞台も出たが、結局逃げられたな(笑)」

2人の息子と関わることが多くなった。右は長男で映画監督の大森立嗣さん、左は次男で俳優の大森南朋さん
2人の息子と関わることが多くなった。右は長男で映画監督の大森立嗣さん、左は次男で俳優の大森南朋さん
【写真】“クマさん”こと篠原勝之さんと全身白塗りで舞台で共演する様子

 麿さんは息子たちと3人で同じ作品に関わることもある。立嗣さんの監督デビュー作となった映画『ゲルマニウムの夜』(2005年)や、『まほろ駅前多田便利軒』(2011年)などの仕事を振り返り、立嗣さんは「親父や南朋と仕事をするのは、一番楽しい」と話している。

「僕が二十歳くらいのとき、正式に離婚したことを母に聞かされました。世間一般でいう親に持つ情のようなものがなかったので、寂しさとか怒りとか、その他の感情も湧いてきませんでした。

 映画の現場では、生まれも育ちも、考え方も違う多くの人が短い時間に集まってひとつの映画を作るのですが、親父や南朋は探り合うことなく何となくわかるとこがあるし、理屈ない肯定感があるので味方がいると感じます」