「ととのいました」を生んだ2人の恩人

ねづっちとは「謎かけ飲み」の同士だった、親交の深いナイツ
ねづっちとは「謎かけ飲み」の同士だった、親交の深いナイツ
【写真】同級生と組んだお笑いコンビ『ケルンファロット』時代のねづっちがイケイケ

 お笑いコンビ『Wコロン』時代、ねづっちは謎かけを漫才のボケに添えるというスタイルを作り上げた。

 当時を知る『ナイツ』のツッコミ、土屋伸之(44)は

「めちゃくちゃうまいことを言っていましたね。若手の中で誰よりも古くさいネタをやっていた、というか。それをあえて漫才のボケにした。ねづっちさんの謎かけは、同音異義語で作るだけに収まらないので、想定外の感動がありました」

 と振り返る。ただしネタは「今のようにお題をいただいてではなかった」(前出・塙)

 最初は漫才の中に謎かけを時折入れていた。途中から木曽さんちゅうが、会場の声を仲介し、ねづっちが答えるという即興謎かけスタイルを手に入れることになる。

 同音異義語を駆使する場合、「しくじった気持ちを港を離れる船ととく。その心は、航海中です」と、「後悔」と「航海」をかけたりする。ところがねづっちが切り開いたのは、文章を刻み、違う意味を持たせるというスタイル。例えば「いいにくかった」を「いい肉買った」とする。つい最近のライブでも、「サラダというのはカラオケと一緒ですよ。どれ、シングする?(=ドレッシング)」という見事な言葉の変容で観客を感心させた。

 現在、ねづっちのトレードマークになっているチェック柄の衣装は、『Wコロン』時代に着始めた。

 所属事務所『プロデューサーハウス あ・うん』の関口雅弘社長(64)は、

「トレードマークの衣装を考えていたところ、たまたま浅草に舞台専門の衣装店があり、そこで選びましたね」と記憶をひも解く。

 ジャケットに白いシャツ、蝶ネクタイは日によって赤か黒かをチョイス、下は黒のボトム(ズボン)というのがねづっちの衣装。どことなくなつかしさが透けて見える。

「ジャケットは8着あります、同じデザインが8着です。もう変えられないですよね、イメージがついちゃったんで」“ねづっち生成3点セット”のうち2点までがここでととのった。残すは「ととのいました」という決めのフレーズだけ。

 その誕生には、お笑いコンビ『スピードワゴン』が深く関わっていた。

 ねづっちは証言する。

「スピードワゴンさんのラジオに呼んでもらった際に、小沢(一敬)さんに『ねづっち、謎かけ得意なんだよね』ってお題を振られたとき、何げなく『ととのいました』って言ったら、小沢さんと井戸田(潤)さんが『ととのいました、って何?』って食いついてきた。次にお題を振られたときに『できました』と答えたら、『ねづっち、できましたじゃないでしょう。“ととのいました”でしょう』と。それからですよ」

 反射的に出た偶然の産物「ととのいました」。それを引き出した『スピードワゴン』の2人をねづっちは「恩人なんです」と今も感謝を忘れない。

 前出・関口社長の記憶によれば、『スピードワゴン』のラジオに出演したのは「2007年ぐらいですかね」。そのころから少しずつ『Wコロン』の仕事量が増え、'09年にねづっちはアルバイトを辞めることができた。34歳になっていたが、先々の見通しを少しずつだが感じられるようになっていた。

 そしてついに! ブレイク・イヤーは2010年。

「映画『交渉人 THE MOVIE』の応援芸人ということでテレビに出演し、主演の米倉涼子さんらがいる前で謎かけをやったら、MCの宮迫(博之)さんが、『ねづっち、今年、来るんちゃう!?』って言ってくれた。その日から1年間休みがなくなりました」

 年末、「ととのいました」が流行語大賞にノミネートされ、ねづっち人気が急上昇。コンビ仕事よりも単独仕事のオファーが多く舞い込むようになった。ただし戸惑ったこともあったという。

「周りが変わるなって思いましたね。何年も連絡取ってない人から連絡が来て、“覚えてる?”と言われ、謎かけを振られたりしました。ちょっとしんどかったですね。ただ、露出が減ると、すっと、なくなりましたけどね」

 仕事が増えたことで、うれしいこともあった。

「僕に会うと、『いつまでやってんの、芸人』と言っていたおやじが電話してきて、『もしもし、ねづっち?』って。『あなたもねづっちですよ(本名は根津)』って返しましたけど、やっと認めてくれたんだって思いましたね」