目次
Page 1
ー 残されていた着信履歴に三遊亭円楽の名前 ー 圓生師匠にハマり落語界でアルバイトを
Page 2
ー 手腕を発揮し円楽師と独立
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ー なんと交際0日で漫才師との結婚を決意 ー ジェンダーという概念がない時代に
Page 4
ー 円楽師からの最初で最後のお礼の言葉
Page 5
ー 育児に仕事にハードすぎて死にそうな毎日 ー 不倫発覚! 会社設立以来の最大の危機
Page 6
ー 円楽師の晩年に寄り添い続けた日々

 2022年9月30日午前2時過ぎ。真夜中に電話の着信があった。熟睡中で出ることはできなかった。思い出すたびに、今も心のどこかが細かくうずく感覚に見舞われる。

残されていた着信履歴に三遊亭円楽の名前

三遊亭円楽さん一周忌
三遊亭円楽さん一周忌

 翌朝。スマホの画面を見る。残されていたのは、『三遊亭円楽』の着信履歴。出社したら折り返そうと息子を小学校に送り出し、娘を保育園に送り届けた。その直後だった。円楽夫人から電話があり、「これから病院に行きます。楽ちゃんが……」と告げられた。

 思い起こせば22年間の縁だった。前半9年は付き人・マネージャーと落語家という関係で、後半13年は『株式会社オフィスまめかな』の代表取締役・植野佳奈と所属タレント・三遊亭円楽(以下、円楽師と表記)という関係で。

「すごい甘かったです、私には」と植野は、自分に対する円楽師の接し方を振り返る。「最初会ったとき私は21歳で、師匠は51歳。21歳の娘にやいのやいの言ってもしょうがない。孫まではいかなくても、可愛がる対象になっていたんだと思います」

「植野の友達だから」と円楽師に目をかけてもらうことが多かった落語家の柳家三三(49)は、円楽―植野ラインを「車の両輪、二人三脚。円楽師匠が言い出しっぺになる。その後の動力の部分、実務は植野さん」と、2人を不可分の存在と見る。

「私の意志が、三遊亭円楽という人の芸と行動に貢献できた。円楽をつくることに貢献できたかなと思いますけど」

 と、ほんの少しばかり誇らしげな事務所社長。彼女と人気落語家の出会いから、このドキュメントを編み始める。

圓生師匠にハマり落語界でアルバイトを

 東京・水道橋の後楽園ホール。日本テレビ系の人気長寿番組『笑点』の楽屋で、2人は初めて顔を合わせた。

「楽太郎さん(当時の円楽師)、ちょっと」

『笑点』の司会を長らく務めた五代目三遊亭円楽が立ち上げ、その後、楽太郎や三遊亭好楽が所属することになる『株式会社星企画』の社長が楽屋の奥に向かいそう呼びかけると、楽太郎がドアから顔だけを、ぬっと出した。

「明日からこの子つくから」

「ふ~ん」

「それで引っ込んで終わり。私に興味なしっていう感じでしたね」と植野は初対面の印象を鮮明に記憶する。

 2001年10月。就職氷河期の真っただ中の当時、早稲田大学第一文学部4年生の植野は卒業単位を取り終え、就職先も決まっていた。

「就活がうまくいかなかったわけではないんですが、就活自体が面白くなかった。くさくさしていたある日、大学の図書館に行き、これまで見たことがないものを見ようとレーザーディスク(DVDの前身のようなもの)の目録を適当に選んだんです。左が喜劇役者の藤山寛美で右が落語家の三遊亭圓生。(子どもの数え歌の)どちらにしようかな神様の言うとおり、をやったら圓生師匠でした」

 連日、図書館に通い、『包丁』や『引っ越しの夢』『栗橋宿』など落語の名演にどっぷりと浸ったあと、突如、ひらめきが植野を襲う。「この人に会いに行かなくちゃ」

 京都・京丹後市で植野が生を享けたのは1980年2月22日。その半年ほど前の1979年9月3日、上野動物園のパンダ、ランランと同じ日に圓生は鬼籍に入っていた。

「大学のパソコンで調べて、亡くなっていたことを知りました。こうなったら、圓生師匠の匂いがするものを追いかけよう」という発想が芽生え、弟子の五代目円楽一門の落語会に通うことに。

「たまたま顔見知りになった一門の若手落語家に、落語界でアルバイトをしたいと話したところ、『星企画』が人手が足りないみたいだよと情報をもらいました」

 事務所にメールをしたら、社長から来た返事が「会います」。その結果、出向いた先が前記の後楽園ホールだった。

「社長に対し、ひたすら圓生愛を訴えました。そうしたら、ついてきなさいって。暗い階段を下りて行ったら、そこが楽屋でした」

 当時の楽太郎さんに圓生師匠の匂いは何か感じましたかと尋ねると、「全然」と植野さんは笑い飛ばす。

「圓生師匠は私のアイドルですが、楽太郎さんはアイドルじゃありませんでしたから」

 圓生の匂いは感じなかったが、楽屋から漂ってきた、酸っぱげな湿布の匂いだけは、今でも思い出せる。