気がついたら元号が平成に

『ラジオビバリー昼ズ』が始まる直前、1989年の正月をセンセーは病院のベッドの上で迎えていた。39歳の暮れにダウン。原因は多忙による過労だった。放送作家としてレギュラー番組や特番の台本を何本も書く一方、立川談志に認められ落語立川流の真打ちに昇進し、披露パーティーやら披露目の会が続き、身体が悲鳴を上げた。

「内緒で病院に入ったんだけど、気がついたら元号が平成になっていた」

 と、小渕恵三官房長官(当時)が掲げる『平成』の文字も、後日知ったという。

 もうじき40歳、不惑になる直前。「やるだけのことはもうやったし、ぼんやり1、2か月過ごしていたんだけど、うちの母ちゃんも『やめていいわよ、何とかなるわよ』って。一緒になって50年になるけど、収入のことは若いころから何も言わない」とセンセーは回想する。「古本屋がやりたかった」と言う。

 敬愛する放送作家の先輩、永六輔さん、青島幸男さん、大橋巨泉さんの発言も、気になっていた。それは「40過ぎて放送作家やってるバカいねぇよ」という言葉。「40過ぎたらアイデアなんて出てこない。若いやつの商売だよ。40過ぎたら俺たちの商売は3つしかない。政治家か小説家かラジオパーソナリティーか」

 その言葉を意識する30代の後半、センセーが「やるだけのことはもうやったし」と満足感を得ていたのは、30代を通して巷を騒がせた『ビートたけしのオールナイトニッポン』の成功を指す。

「お互いに単体では世の中には出られなかった。合体できたから出られたと思う。何しろたけしの気持ちを同時通訳できたからね。わかりやすく伝えられた。いってみれば“笑いの戸田奈津子”」とセンセーが振り返るビートたけしとの出会い。なぜそんな運命が待ち受けていたのか。時を巻き戻してみる。

 22歳、大学卒業と同時に放送作家の大御所、塚田茂さん(2008年、82歳で没)に弟子入りした。テレビ局の入り口で、幹部が総出で迎える存在。『夜のヒットスタジオ』『新春かくし芸大会』(共にフジテレビ系)や『8時だョ!全員集合』(TBS系)など放送史に刻まれる伝説の番組を立ち上げた巨匠のもとで、センセーは腕を磨き始める。

「テレビ局の制作デスクで夜中に原稿を書いて、俺の字が読める印刷屋に原稿を渡して、飲みに行って、帰ってきてはテレビ局のソファで寝る。すると朝、『高田ちゃん、こういうのあるんだけど書いてくれない』とどんどん依頼が舞い込む。高田に頼むと早くて面白いよ、と評判になる。(塚田一門の)いちばん下っ端だから、頼みやすい」

 そんな多忙な日々を送っていたが、ふと、わびしくなる瞬間があったという。

「コントを書いても、それをやるのはアイドル。フィンガー5とかアグネス・チャン、天地真理とか。軽いオチで成立するんだけど、書いているうちに虚しくなって。三波伸介さんの仕事が入ると、笑いのプロは面白いなと思うんだけど、当時の演芸は隅っこの隅っこだったから」

 そんなセンセーに、コメディアンのポール牧さん(2005年4月、63歳で没)と青空球児(82)が同じ情報を耳打ちしてきた。

「高田ちゃん、最近浅草行った?」「たまには行ってみなよ、たけしっていう頭がおかしいのがいるから」「放送では使えないよ、でも高田ちゃんと気が合うと思うよ」

若かりしころのたけしとの運命の出会い

2019年に『江戸まちたいとう芸楽祭』にてビートたけしと
2019年に『江戸まちたいとう芸楽祭』にてビートたけしと
【写真】高田に影響を受けたという宮藤官九郎とのツーショット

 両者の誘い文句に乗って、センセーは浅草・松竹演芸場へと足を運ぶ。そこで出会ったのが若かりしころのビートたけしだった。

「たけしさんの歌で『浅草キッド』ってあるだろう。あの中で、♪客が2人の演芸場で♪っていう歌詞があるけど、あの客の1人は必ず俺だから」

 すぐさま、飲もうかとなり、朝まで飲んですっかり意気投合。

「別れ際には、明日どうしてんの、って恋人同士みたくなっちゃって、毎日飲んでたね。世の中に出たら面白いんだけど、出ちゃいけないんだろうな、と思うほど、ハチャメチャなネタだったね」

 そう考えたセンセーに、'80年代が味方した。漫才ブームの到来。吉本が売り出したB&B、紳助・竜介、ザ・ぼんちに対抗し、関東にもこんなのがいますと、ツービートを押し出すことに成功。それがハマった、今風に言えばバズりにバズった。

 ニッポン放送はそんなたけしに目をつけ、仲介者としてセンセーに相談を持ち込んだ。

「岡崎(正通)さんっていうタモリさんを仕掛けた、タモリさんと同じ早稲田のジャズ研の先輩にあたる人が、『高田ちゃん、話があるんだけど、漫才師を1人だけを使うってできない?』って。俺なんかもずっと、漫才師は2人で使うっていう頭があって、この常識に凝り固まっていた。漫才師のバラ売りはありえなかった」

 まさにコロンブスの卵。早速センセーは、たけしの所属事務所・太田プロダクションに掛け合った。

「これはこれは高田亭、何のご用件で」と迎えてくれた社長夫妻に用件を伝えると、副社(=副社長)はイスを180度回転させたという。

「四谷三丁目の通りを30分ぐらい無言で眺めている。エーゲ海でも見えんのかなと思っていたら、ぐるっとイスを回して『わかりました、お貸ししましょう、高田ちゃんなら』。ただし条件があって、『高田ちゃんがそばについていること。周りが知らない人ばかりだと、たけしは人見知りが激しくてしゃべれないから。太田プロのお願い』」となったという。

 ビートたけし&高田文夫コンビが成立した瞬間だった。