『ビートたけしのオールナイトニッポン』

 1981年1月1日、新聞のラテ欄を見たセンセーは驚いた。そこには『ビートたけしのオールナイトニッポン』と表記されていたからだ。

「芸名を知らなかった(笑)。たけちゃんとかツービートのおしゃべりのほうとか思ってたから、『ビートたけし』にはびっくりだったね」

 1クール、春までの3か月の約束で始まった番組。スタジオに一緒に入ったものの、当初、しゃべるのはたけし1人で、センセーはメモを差し入れていたが、たけしのしゃべりのスピードに追いつかなくなり、口をはさむようになった。それがリスナーに大ウケ。作家の小林信彦さんが、

「木曜日の深夜のラジオが大変なことになっている、放送の歴史を変える革命だ」

 という評論を書いたことで、番組の継続が決定。1990年まで10年続く長寿番組になった。

 同時期、テレビでは伝説のバラエティー番組『オレたちひょうきん族』が放送され、タケちゃんマン人気が大爆発。コントの台本を書いていたのはセンセーだった。

若い才能をきちんと育てる“選芸眼”

ビートたけしのオールナイトニッポン』は、笑いを模索する多くの若者を刺激した。

 ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランの影響を受けた後輩ミュージシャンを“ディランズ・チャイルド”と呼ぶが、脚本家の宮藤官九郎(53)や爆笑問題の太田光(58)ら、多くの“たけし&文夫ズチャイルド”を、同番組は生み出した。

 センセーに影響を受けた逸材が芸能界のまん真ん中に育つ一方で、センセーは若い才能に目をつける、選球眼ならぬ“選芸眼”を持つ。

「高田センセーに目をかけられた」という立川志らくは「恩人も恩人ですよ」とセンセーに深く感謝し続けている。

 出会いは、日芸の落研の夏合宿。大学4年のときだった。センセーの前で各自が得意ネタを披露したが、本寸法(正統派)でアプローチする学生が圧倒的な中、志らくは現代風ギャグをちりばめて落語『後生鰻』で笑いを取りにいった。

「これがハマって、『目に浮かぶよ、おまえが売れている姿が』とまで言ってもらいました」

 夏休み明けに家元、立川談志師匠を紹介され、そのまま入門。ラジオの生番組で「放送コードアウトのネタをしゃべってセンセーを嘆かせたり、映画『異常暮色』を撮った際には、『こんな映画作りやがって』と落胆された」が、それでもずっと志らくを見守ってくれたという。

ベースが人情。理屈でどうのこうのじゃなくて、人情で物事を判断してくれる」というセンセーの物差しに、救われたことがあったという。

「ドラマの『タイガー&ドラゴン』が流行り、落語ブームになり始めたころ、私は映画や演劇に夢中になって、調子に乗っていた。ある日、センセーに銀座に呼び出されて『おまえはそこにいるやつじゃないだろう』って朝まで小言ですよ。軸足が落語にあればいいんだけど、なかった。そこを高田センセーに見透かされていた。すげえ怒られ、釘を刺されましたね」

 その結果、志らくは軸足を落語に戻すことになる。さらに、談志の「どうして志らくはテレビに出ねえんだ」の言を受けたセンセーは現在の所属事務所、ワタナベエンターテインメントの会長に「志らくを頼む」と直談判してくれたという。

 きちんと芸人を引き上げる一方、そそのかすことも忘れないのがセンセーの流儀。志らくが続ける。

TBSの『ひるおび』にコメンテーターとして出演が決まったとき、『おまえ、終わりだな。まじめになっちゃうな、コメンテーターになったらつまんないこと言うようになるよ、つまらないヤツがこの世でいちばんの悪』

 そう面と向かって言われた志らくは「これは何か言わなくちゃいけない。乱暴でもくだらなくても、炎上しても構わない」と決断。置きにいくコメントでお茶を濁さないことを、センセーに注入された。

「要は、どれだけふざけるか。談志は非常識で生きろ、高田センセーは全部ふざけろ、その指針を守っています」