意識を失い8時間も心肺停止状態に

「人が好き。人を楽しませるのが芸能だから、人が好きじゃないとダメなんだよ。それに“人間”というんだから、人の間がいいヤツがいいんだよ。間のないヤツをマヌケ」というセンセーは、小さなころから大人の世界を垣間見る環境に育った。

 父親は出版社の経営者として手広く、羽振りもよく、あまり家に帰ってこない。

「遠洋漁業に出ているのかと思うほど、家で見るのは年に数回。そのころは給料が現金手渡しだから、5人きょうだいの末っ子の俺がよく、オヤジのところへ取りに行かされた。見知らぬ家に行くと『高田』って表札がかかっていて、きれいな人が出てくる。これじゃ家に帰ってこないな、子どもながらに思ったね(笑)」

小学校の学芸会で自作のコントを(左から3番目)
小学校の学芸会で自作のコントを(左から3番目)
【写真】高田に影響を受けたという宮藤官九郎とのツーショット

 小学校のころすでに、東京の柳橋や神楽坂の料亭にも顔を出し、座敷のまん真ん中で、粋な世界を観察していた。

 自分の家が普通だと思っていたから、友達の家に遊びに行き、その家の父親が夕方帰宅すると「え? お父さん、帰ってくるんだ」と友達の常識を揺さぶった。家政婦が2人いて、文雄(本名。文豪・丹羽文雄と父が銀座のバーで飲んでいるときにセンセーが生まれ、その場で『文雄』をもらった)専属の家庭教師も3人。友達の家の父親が車を運転すると「え? 運転手いないの?」。

 車の後部座席から街並みを眺めながら、父親が指定するお座敷のある街へ。大人の世界に触れる文雄少年の、喜びだった。

 一方、家の中は、鳶の娘で、明るくしゃべり上手の母親がしっかり仕切っていた。

「おふくろ目当てに兄貴の友達やおまわりさんや渋谷の愚連隊だった安藤組も、ご飯を食べに来る。毎日宴会やっていたね。おふくろのしゃべりが面白くて、おまわりさんと安藤組に『ケンカしちゃダメよ』って。そこで子どもだった俺が時々、茶々を入れる。大人相手にしゃべって笑わせていると、大人に物おじしなくなるので年上に緊張しない。後年、芸能界でいちばん怖い人といわれていた喜劇俳優の三木のり平さんに可愛がってもらったのも、胸に飛び込んでいくからだったね」

 学校で父親のことを聞かれたら「出張って言いなさい」。それで出張という言葉を覚えた。

 小学校低学年から詩吟を習い、全国大会で3位になったこともある。小学3年生のころには、『雲の上団五郎一座』に興奮し『どんぐり一座』を結成。高校時代の文化祭では、エレキバンドのボーカルを務める一方で、早着替えで任侠の国定忠治役になる風変わりな生徒だった。ファッションではVANに目覚め、中学3年ですでにおしゃれ番長。雑誌『平凡パンチ』にも載ったほどで、「今も着ている。自分で服も靴も買いに行く」。

高校の学園祭で歌いまくった高田(右)
高校の学園祭で歌いまくった高田(右)