大物たちの目に留まり俳優としても活躍

『かたり』を手に入れる前夜の山田は、心の片隅で、高田を慕う春風亭昇太や松村邦洋らに憧れ、漫談以外の芸を模索しつつも、タレント・俳優としての仕事も順調で、「漫談と架空競馬実況中継」という芸域にとどまっていた。

 俳優としての山田は、存在感を増していた。演じ手の原石に目をつけたのは巨匠、山田洋次監督(92)だった。

「松竹のプロデューサーから電話がきて、山田監督が脚本を書いている神楽坂の旅館に来てください、と。何で僕なんだろう、と思って、周りの方に聞いたら、テレビドラマを見た山田監督が『あいつには芝居心がある』と。スタッフ全員が『えええ!』とツッ込んだと聞きました」と言う山田の役は、寅さんの甥・諏訪満男(吉岡秀隆)の先輩。

「演技指導に泣きました。絞られて迷っていたら、渥美清さんが『あんちゃん、画面(=スクリーン)で光るよ』って。それで気分がパーッと晴れて、本番は一発オッケー。ド素人の僕をプロにしてくれたのは山田監督です。芝居の間を学びました。それが『かたり』にもつながっています」

『渡る世間は鬼ばかり』でレギュラー俳優に

『渡る世間は鬼ばかり』など数々のドラマや映画にも出演した
『渡る世間は鬼ばかり』など数々のドラマや映画にも出演した
【写真】当時の貴重ショット『鶴瓶と花の女子大生』でリポーターに起用された山田雅人

 渥美清さんのひと言に救われ、映画『男はつらいよ 拝啓車寅次郎様』('94年)の画面で光った山田を、今度はTBSの名プロデューサー、石井ふく子が見逃さなかった。人気ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』に大抜擢。'97年から'07年まで10年間、山田はレギュラー俳優になった。

 ドラマの撮影現場でも山田は、『かたり』につながるエキスを吸収した。

「俳優の藤岡琢也さんのしゃべりの間、あれは僕の『かたり』の間です。出演した250話の台本をすべて記憶しましたから、脚本の書き方も自然と身についたんだと思います」と山田は種明かしをする。

 ちなみに『渡鬼』の脚本家、橋田壽賀子さんも山田の『かたり』の大ファンで、亡くなる直前、山田は電話をもらっていたという。

「私、あなたの舞台に行きたいけど、足が痛くて行けないの。コロナが終わったら、お家に来てやってちょうだい」

 橋田先生の最後の声が、今も山田の脳裏に響くという。

 俳優業の合間にも高座に出演し続けていた山田だったが、持ち時間は15分程度。

「怖いんですよ、マイク1本で1時間やるのは。15分の漫談で30年やってきた人間ですからね」と躊躇する山田の芸の根っこにまず着火したのは、落語家の立川志の輔(70)だった。

「高田先生がプロデュースする笠間寄席(茨城県笠間市)で、僕の漫談のあとに志の輔師匠が出た。マクラも含めて1時間、新作落語『親の顔』をやったんです。ぶっ飛びました。こんな芸があるのかと。高田先生が見せたかったんだと思います」

 志の輔に刺激を受けた山田を、さらに一押ししたのは高田だった。

「競馬の実況をされても、競馬がわかんないからさ、もっと野球とか相撲とかやったら、と宿題を出されました。稲尾和久が好きだから、3連敗の後に4連勝した西鉄の日本一を作れって」

 高田の指摘でネタは決まった。かくして、山田の奮闘が始まる。