奥女中が私的に雇う使用人は「部屋方」「又者」と呼ばれ、老女ともなれば20人ほどの部屋方を抱えていた。このほか、親類縁者の少女を奥女中予備軍として預かる「部屋子」、商家や農家の娘が下働きと行儀見習いを兼ねる「世話子」がいた。
大奥は「元祖・港区女子」
世話子は水汲みや飯炊き、掃除ばかりか、駕籠かきまでこなしている。だが、彼女たちノンキャリア組もプライドを持っていた。ある世話子は実家にこんな文を送っている。
「江戸の娘は役立たず。やっぱり女中は勤勉で丈夫な遠国の娘に限ります」
キャリア官僚の奥女中に定期採用はなかった。部屋方からスタートし、才気が認められると、奥女中の御吟味(採用試験)にチャレンジできる。
もっとも、採用の可否は身元保証人や推挙する上級女中(世話親)のコネが幅を利かす。大奥での出世は「一引、二運、三器量」が条件といわれている。
ところが場合によっては器量が最大の武器となる。将軍の目に留まり、夜の相手を務めれば、下級女中であっても一挙に上から4番目の「御中臈」へジャンプアップ!
将軍参加の宴席や、振り袖姿で庭を散歩し容貌をアピールする「御庭御目見得」は絶好のチャンスだ。そのあたりのテクは、ウブな地方出身者よりも江戸の娘のほうが長けていたに違いない。「元祖・港区女子」といったところか。
御中臈が将軍の子を産めば「御部屋様」、その子が世継ぎに指名されれば「御内証之方」。将軍の生母になれば姫君の格式を賜り、女中たちに奉仕される側へと境遇が一変する。それだけに、大奥では嫉妬や対立が露骨だった。
将軍の寵愛を受けた女中を「汚れた方」と蔑視し、お呼びのかからない者を「清い方」と称したのだから底意地が悪い。
ストレス過剰な職場だけに自殺者も出ている。大奥の西井戸では4人が身投げしており、昼間から網をかぶせ、夜には蓋をして厳重に施錠したという。
血なまぐさい事件もあった。文政時代(19世紀初め)には、局部丸出しで惨殺された女中が駕籠の中から発見されている。また、御天守台から全身切り傷だらけの遺体となった女中が落ちてきた怪事件も起こった。
しかし、いずれも真相不明のまま迷宮入りしている。大奥の内情は他言無用、箝口令が敷かれていた。
外野としてみたら、閉ざされた空間への、お下劣な臆測や妄想が膨らむもの。大奥ネタはお江戸の“文春砲”こと讀賣(瓦版)が黙っちゃいない。湯屋や髪結い、井戸端会議での口コミだってバカにできない。奥女中の乱行は庶民の知るところとなった。
正徳4(1714)年には、大奥幹部と人気歌舞伎役者の密通が取り沙汰された「絵島・生島事件」が発覚した。
老女の絵島は、多数の女中を従え、増上寺に代参。その帰途、芝居小屋に立ち寄り大宴会を催す。宴席には歌舞伎役者の生島新五郎が侍った。よほど盛り上がったのだろう、絵島一行は大奥の門限を約2時間オーバーしてしまう。