80年代アイドルを語るとき、豊作だった“花の82年組”というけれど、85年デビュー組も錚々たるメンバーがズラリ! デビューしてから40年。松本典子さんに当時の思い出、今だから話せることなどを語ってもらいました。
“聖子の後継者”という期待が
「デビュー当時を振り返ってみると“よく頑張ったね”という感じですね(笑)。本当はゆとりを持ってお仕事をできればよかったんですけど、とにかく一生懸命やることしかできなかったな、って」
はにかみながら、松本典子はこうアイドル時代を思い返す。84年に「ミスセブンティーン」コンテストで網浜直子とダブルでグランプリを獲得。翌年に『春色のエアメール』でデビューを果たした。しかし「まさかデビューできるとは思っていなかった」と、松本はこう続ける。
「学校で友達の前で歌うとかではなく、小学生くらいのときに、誰にも見られないように家でワンピースを着て、母のヒールを履いて歌ったりしていました。大場久美子さんが大好きで、アイドルにひそかに憧れてはいたんです。
でも中学生、高校生となってくると“現実”がわかってくるじゃないですか(笑)。心のどこかで“アイドルになりたい”と思ってオーディションを受けたりしても、それがどこまで本気なのかは自分でもわかりませんでした」
そんな彼女の背中を押したのが姉だった。
「姉も受かるとは思っていなくて“やってみたければやれば?”くらいな感じ。コンテストに出す写真を撮ってくれたり、当時は群馬に住んでいたので、予選会場の東京までついてきてくれたりしました。一緒に楽しんでいた、というのが近いかな」
松本のプロデュースを担当したのが、松田聖子を発掘したプロデューサー。なので、松本には“聖子の後継者”という期待が寄せられていた。
「芸名も松田聖子さんの“松”と“子”をいただいているんです。当時はプレッシャーとか不安もなく、喜びのほうが大きかったんですけど、デビューが決まり、曲が決まってと話が進んでいくうちに“私、本当に大丈夫かな”という不安は大きくなりました。
実はコンテストで優勝した時点から“どうしよう”という感じはあったんです。でも、もう後には引けない、って」
当時のアイドルには、デビュー時にキャッチフレーズをつけることが普通だった。例えば、中森明菜は“ちょっとエッチな美新人娘(ミルキーっこ)”など。自身のキャッチを松本に聞いてみると、
「私は“とどくかな、笑顔。”でした。初めに聞いたときは、爽やかな感じだなって。もともと、笑うことが得意じゃないというか(笑)、そんなに大笑いするほうではなかったので、笑顔が苦手な女の子が少しずつ、みなさんに笑顔を届けられるようになっていく、というイメージでとらえていました」
今まではテレビの外側から見ていた世界に飛び込んだ松本。そんな、笑顔にも自信がないと話す彼女を支えたものは?
「やっぱり親衛隊の方たちとか、ファンクラブができて、お手紙をいただいたりとか。キャンペーンのときにそうしたファンの人たちが来て応援してくれたのはすごくうれしかったです」