演劇部で芝居にのめり込む
「高校生のとき、立って本を朗読すると、緊張で過呼吸になるような自意識過剰な子どもだったの。でも、芝居で誰かを演じると平気だったんです。それで演劇部に入って、芝居にのめり込んでいきました」
芸能は身近だった。東京・深川にある自宅前の通りにスクリーンを設営して映画を見せる野外上映がよく開かれた。女性の心情をきめ細かく描く成瀬巳喜男作品が好きで影響を受けた。歌舞伎役者志望だった父親に連れられ、歌舞伎もよく見に行った。それがのちの職業の土台を築いていく。
ただ、松井さんが大学1年のときに、父親の営む会社が倒産してしまう。家計を支えるために自身もバイトに精を出したが、特に影響を受けたのは母親の奮闘ぶりだ。実兄が経営する銀座の飲食店で働き、家計を支え、姑が倒れるとひとりで介護を引き受けた。
「愚痴ひとつ言わず、自分でどんどん人生を切り開いていって、朗らかに私たち4人きょうだいを育ててくれました。姑の嫁いびりもひどかったけど、泣き言もいわなかった。私のロールモデルは母親です」
しかしその生き方は、25歳のときに結婚した松井さんの夫には通用しなかった。
結婚した相手は劇団で主に脚本を書いていた男性。夫は小説家志望だったが、親が決めた会社に就職。営業職を任されて、つらそうだった。
「会社をやめて、うちで書けばいいわ。私が働くから」
と言った。当時、松井さんは『週刊平凡』や『anan』などをベースにフリーライターをしていて、それなりに収入はあったからだ。
「でも彼は、男は家族を養うべき、女は家で夫につくすべきという根っからの男尊女卑の人だったから」
そこにDVも加わった。しかしそんなときは幼い息子・勇氣さん(51)が支えようとしてくれたという。3歳のときには背中をさすりながら「僕がいるから大丈夫だよ、泣かないで」と慰め、ついに別れ話に発展した5歳のときには、「もう1回我慢してみる気ない? 我慢できたら自信がつくと思うけど」と助言をした。
我慢も限界を超えた彼女は、息子が5歳のとき、8年の婚姻関係に終止符を打った。
勇氣さんは松井さんが引き取った。が、仕事が忙しいため、近所に住む両親宅で育てられ、会うのは週末だけ。成長するとRCサクセションや、ガンズ・アンド・ローゼズというハードロックバンドを好きになり、ライブにも一緒に行き、親子の時間を取り戻すこともあった。












