ライターから芸能事務所社長へ。しかし……
離婚後しばらくしたころ、俳優の故・荻島眞一さんから「僕のマネジメントをしてくれないか」と打診される。松井さんは、俳優の取材を任されることが多く、高倉健さん、三浦友和、中村雅俊、水谷豊、草刈正雄といった人気俳優と気心の知れた間柄だった。荻島さんもその1人だったのだ。
ライターとしての先行きにも疑問を感じていたこともあり、荻島さんの誘いに従い芸能事務所を設立。高橋惠子、酒井和歌子、長谷川初範といった俳優を手がけるまでになる。
「この業界は向いていない」と思うことが増えていたころ、再び転機が訪れる。
'80年代半ばは、各テレビ局が2時間ドラマを放送し始めた時期だ。松井さんはそれらを見て感じることがあった。
「多くの女性が見る番組なのに男性目線だと思うことが多かった。当然です、作っているのは男性ばかりでしたから」
それでも“女性はこんなドラマに興味はない”という松井さんの意見に耳を傾けてくれるプロデューサーが何人かいた。芸能事務所を経営する中で培った人脈の賜物だ。そこで彼女は番組制作会社を設立、ドラマ企画をテレビ局に提案するようになる。
当時、女性の番組制作会社の社長は珍しく、しかも視聴率で厳しく判定されるテレビ界で、松井さんは約10年間、40本近い2時間ドラマやドキュメンタリー、旅番組を作った。
「雑誌ライターだったころから、企画を立てるときに想定していた読者や視聴者は、自分と同世代を生きてきた女性でした。彼女たちが考えていること、関心のあることを念頭に企画を立てた。限られたターゲットだと思われがちだけど、それが間違っていなかったことをメディアで発信しながら実感してきたんです」
さらなる転機はテレビ現場の変化によって訪れた。
「ゴールデンタイムの番組がドラマからバラエティーに移行して、私たち下請け会社は経営が大変になりました」
完全に「監督」へとギアが変わったのは、戦後、アメリカ人と結ばれ渡米した日本人女性“戦争花嫁”をテーマにドラマを制作しようとしたときだ。企画を出せど、どのテレビ局も興味を示さず、ならばと映画化の道を探った。資金を集め、映画界の重鎮・新藤兼人さんに脚本と監督を依頼した。周囲は難しいのではないかと言ったが、直接思いの丈をぶつけると、脚本は承諾。しかし監督は頑として引き受けようとしない。
「自分でお金を集めたんだから自分で撮らなきゃダメだ」
と言われるばかり。だがズブの素人にいきなり映画監督ができるとは思えずにいると、
「できますよ。日本映画を支えているのは女性の観客です。ところが撮っているのは男ばかりだ。女性が撮れば日本映画はよくなりますよ」
その言葉には松井さんに「撮ってみたい」と決心させる不思議な力があった。












