テレビやラジオの優れた番組や制作者を表彰する「ギャラクシー賞」の運営に関わっている関係者が週刊女性に明かすには、

「'18年には久米さんが授賞式の司会を務めたのですが、脱線トークが多く、歴代もっとも進行が遅れてしまって。久米さんに、そのことを伝えたら“いいんだよ! 遅れたって”と開き直られてしまいました(苦笑)。

 久米さんのことを知的な司会者というイメージを抱いている人も多いかと思いますが、内面を引き出すためにインタビュー相手を怒らせることも厭わない破天荒なところもありました

演劇プロデューサーになることが夢だった

 実際、型破りなアナウンサー人生だった。

久米さんは早稲田大学に進学し、演劇サークルに所属。当時は自身の劇団をつくって演劇プロデューサーになることが夢だったそうです。TBSに入社直後、あがり症で体調を崩したり、番組を任されてもすぐ降板したり。業界では“番組つぶし”と揶揄されていた時期もあったといわれています」(ラジオ局関係者、以下同)

 日の目を見ない時期を過ごしていた久米さんに、転機が訪れたのは'70年。『永六輔の土曜ワイドラジオTOKYO』のレギュラーに抜擢されたことだった。

永さんは放送作家としては'61年に始まったNHKの音楽バラエティー番組『夢であいましょう』、作詞家としては坂本九さんの『上を向いて歩こう』を手がけて、当時の放送界で重鎮といわれた存在。『土曜ワイドラジオTOKYO』での久米さんは、街頭リポーターとしてスタジオにいる永さんに現場の中継をすることでした

 当然、メディアの第一線に立つ永さんが、普通のリポートを面白がるはずもなく、次第に久米さんの持ち前のエンタメ精神に火がつき……。

横断歩道や歩道橋といった無機物を中継してみせるコントじみたものや、自衛隊駐屯地に潜入してリポートしようとしたりと、かなりむちゃな取材を敢行。そうした場数を踏んだおかげで度胸やアドリブ力が鍛えられたといわれています

 永さんの娘である永麻理さんは、2人の関係について『週刊女性』にこう語ってくれた。

「共通していたのは、恥ずかしがり屋なところ。『土曜ワイドラジオTOKYO』の後に何度も共演していますが、久米さんは父のことを面と向かって恩人などと称えたりせず。父も久米さんが人気アナウンサーになっても褒めることもなく。

 いつだったか定かではありませんが、父が久米さんに対して“放送”という言葉をひっくり返すと“送りっ放し”になることから“君の番組は送りっ放しになっていないか”と、チクリと言ったこともあったとか