妻の美幸は彼女なりの物語をつくり、公私の境界線が曖昧になるほど推し活にのめり込んでいく。
「スケジュール帳が推し活の予定でびっしりだったり、欲しい写真が出てくるまで中身がわからない写真を買い続けたり。推し活をしている人たちのお話を聞いたとき、時間もお金もすごくかかるのに、誰に何と言われようとも夢中になれるのはうらやましいと思いました」
嘘については「肯定派」
推し活のために、夫への裏切りともいえる行動をとる美幸を卓郎は受け入れ続ける。
「人は“推す”という高揚感や楽しみを覚えたら、どんどん夢中になっていくのでしょう。それと同じで、卓郎はいろいろな理屈をつけて『美幸の推し活を通じていろんなことがあったけど、俺は今の彼女が本当に好きなのかもしれない』と、無理やり思い込もうとしているんですよね。はたからみれば、『大丈夫?』と思われるような卓郎の非常識な理屈を考えるのは面白かったです」
実は、卓郎のような思考は小説の中だけとは限らない。
「私たちには、卓郎のようなところが多かれ少なかれあると思うんです。例えば私自身にしたって、今現在の自分の状況に『特に不満はない』と思っているわけですけど、100パーセントそうなのかなといえば違うと思うんですよね。
気にするほどではないと思っている不満とか不安も、じっくり向き合ってみれば深刻な問題なのかもしれない。でも、いちいち向き合おうとはしないわけですよ。向き合うと人生が停滞してしまうから」
井上さんは、嘘については「肯定派」だという。
「嘘の是非より、『嘘をついてでも生きていく』ということのほうが重要に思えるんですよね。小説家的な人生観かもしれませんが」
物語は思わぬ展開を迎え、卓郎のとある決意とともに幕を閉じる。
「美幸に関しては、自分勝手に暴走していく女を書けばよかったのですが、その妻と離婚せずに、受け入れようとする卓郎の心理の変化を考えるのは苦労しました。なんとか、物語のラストに着地できてよかったです」
本作は井上さんにとって、どのような一冊となったのだろう。
「推し活という、自分とは無縁なものを通して、人間のひとつの在り様を書けたように思います。『アクリル』を読んで、どこか自分にも通じるものがあると感じていただけたらうれしいです」
最近の井上さん
「昨年、運転免許証を取得しました。初めは、夫に同乗してもらっていたのですが、今は近場なら一人で運転できるようになりました。今日も最寄り駅まで運転して来ましたし、車で自由に移動できるのが楽しいです。先日、江國(香織)さんを乗せる機会があり、『(免許を取るだけじゃなく)きちんと運転しているのがすごい』と言われました」
取材・文/熊谷あづさ
井上荒野 (いのうえ・あれの)/1961年、東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業。1989年『わたしのヌレエフ』で第1回フェミナ賞を受賞。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞、2008年『切羽へ』で第139回直木賞、2011年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞、2016年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞、2018年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。ほか、『あちらにいる鬼』『照子と瑠衣』『錠剤F』『しずかなパレード』など著書多数。



















