「昭和天皇が70年前の8月15日(終戦の日)に、国民に終戦を伝えた『玉音放送』のオリジナル盤が、8月1日に初めて公開されることになりました」

 日本が第2次世界大戦に敗れてから70年の節目に、公にされる貴重な記録について、そう話すのは宮内庁担当記者。

「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び……」という昭和天皇の声で有名な放送だが、天皇陛下がこの放送を聞かれたのは疎開先の奥日光(栃木県)で、学習院初等科6年のとき。

 1学年下の美智子さまも、軽井沢(長野県)に疎開されていたときのことだった─。

「すでに両陛下は、6月末に皇居・御所で、皇太子さまと秋篠宮さまと一緒に今回の放送を聞かれたそうです。公開には陛下のご意向があったとのことで、陛下が次の世代や国民に広く70年前の戦争について関心を持ってもらいたいお気持ちがあるのではないでしょうか」(同・記者)

 折に触れて先の大戦について言及し、平和を祈り、日本国憲法を守ろうとする両陛下の姿勢は、お言葉にもにじみ出ている。

《先の戦争では300万を超す多くの人が亡くなりました。その人々の死を無にすることがないよう、常により良い日本をつくる努力を続けることが残された私どもに課された義務》(天皇陛下’14年12月・お誕生日の記者会見)

《今、平和の恩恵に与っている私たち皆が、絶えず平和を志向し、国内外を問わず、争いや苦しみの芽となるものを摘み続ける努力を積み重ねていくことが大切》(美智子さま’14年10月・お誕生日の文書回答)

 そして、お言葉だけではなく「行動」で、戦没者への慰霊と平和への祈りを続けられている。

「両陛下は昨年6月の沖縄県訪問を皮切りに、10月には長崎県、12月に広島県へ。今年の4月には西太平洋の島国・パラオを訪問された後、5月に東京大空襲の犠牲者が祀られている都慰霊堂へ。6月には戦時中、徴用され6万人が戦死した民間船員が眠る『戦没船員の碑』を拝礼されました」(宮内庁関係者)

 6月中旬のプライベート旅行でも、パラオからの引揚者たちが開拓した宮城県の北原尾地区にも立ち寄り、ねぎらいの言葉をかけられた両陛下。10年前の「戦後60年」のときと比べると、格段にお出ましが増えている。ある皇室ジャーナリストが話す。

「戦後60年のときの両陛下の慰霊といえば、激戦地だった太平洋のサイパン島訪問ですが、ほかに広島や沖縄などは訪問されませんでした。前年の’04年1月に沖縄を訪問されていますが、戦後60年に関連したニュアンスはなかったようです。ほかには都内で開かれた『戦没・殉職船員遺族の集い』や毎年出席される『全国戦没者追悼式』を除いて、目立った活動はされていなかったので、今回の足かけ2年の慰霊の旅は異例だと思います」

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バッシング報道でお声を失っているときにも、激戦地だった硫黄島に(’94年12月)

 20年前の「戦後50年」のときは、前年に東京から約1200キロ離れた激戦地だった硫黄島を訪れると、広島、長崎、沖縄などにお出ましになった両陛下。陛下は’12年に心臓の手術をされ、美智子さまは頸椎に持病を抱えるなか、10年前、20年前と比べて精力的に各地を歩かれるのには、どんな理由があるのか─。

「戦後60年のときの両陛下の慰霊の旅といえばサイパン島訪問ですが、目立たないところで地道な鎮魂の活動をされていました」

 そう話すのは長年、皇室を取材するジャーナリストで、文化学園大学客員教授の渡辺みどりさん。

「サイパンでは、日、米、サイパンが建てた碑だけではなく、沖縄出身者を祀る『おきなわの塔』や『韓国平和記念塔』も拝礼されました。美智子さまは、その後、那須(栃木県)でご静養のときは陛下や黒田清子さんと、満蒙開拓の引揚者が戦後、切り開いた開拓地を訪ね、秋篠宮家の長女・眞子さまも誘い、関係者から話をお聞きになっています」

 そのうえで、今回の両陛下にはこんな"思い"があるのではないかと推し量る。

「節目の年に各地を訪れることができるのは、"最後"との思いがあるのかもしれません。美智子さまは陛下に従いながら、いつまでも戦争犠牲者への鎮魂を続けられると思いますが、年齢や体力の問題は無視することはできません。今のうちにできる限りのことはやっておきたいという、お考えがあったのではないでしょうか」

 さらに、若い世代への"メッセージ"を行動で示されているとみる。

「次の天皇と皇后である皇太子ご夫妻に、戦没者慰霊というお手本を示したいお気持ちもあるはずです。先日のトンガ訪問で、雅子さまのご体調はよさそうでしたが、今後、犠牲者を慰霊する過酷な旅を続けることができるかは不透明な状況です」