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 自分より年上の俳優にも「バカヤロー!」「マヌケ!」と、容赦なく罵声を浴びせ、妥協することをいっさい認めず、“鬼の演出家”と恐れられた蜷川幸雄さんが5月12日、静かにこの世を去った。同15日、16日に営まれた通夜、告別式には大勢の俳優たちが参列し、別れを惜しんだ。

 蜷川さんは'97年に心筋梗塞で心臓のバイパス手術を受けて以来、'01年には腹部大動脈瘤、'09年に脳梗塞、'13年には狭心症の手術を受けるなどずっと病気と闘い続けていた。

「'14年にも体調を崩し、車イスで酸素吸入器をつけて稽古場に来ていました。昨年12月にも体調を崩して入院、一時は回復してリハビリに励んでいましたが、亡くなる前日に容体が急変したようです」(スポーツ紙記者)

 俳優としてドラマや映画に出演していた蜷川さんが演出家に転向したのは'69年のことだった。それ以降、亡くなるまで180本以上の舞台を演出したが、彼が“世界のNINAGAWA”として海外で知られるようになったきっかけは、自身が演出したシェークスピア劇やギリシャ悲劇を海外で上演したことだった。

「'87年に『NINAGAWAマクベス』がロンドンで上演されたのですが、地元のメデイアが絶賛。特に新聞は“今やマクベスは日本人となった”とまで書いていました」(スポーツ紙記者)

 同時に厳しい演技指導をすることでも有名だった。俳優に罵声を浴びせるだけではない。もはや伝説となっているが、灰皿や靴が飛んでくるのは日常茶飯事だったという。

「誰にでも厳しかったというわけではないようです。見込みのある人には役者として成長してもらおうという親心が強くなり、特に厳しく接したと思います。でも、それはまさしく“愛のムチ”だったんでしょう」(演劇関係者)

 実際に蜷川演出の洗礼を受けた俳優たちは「本当に厳しかった」と口をそろえるが、かといって、蜷川さんと2度と一緒に仕事をしたくないという俳優は皆無だ。

「どんなに罵声を浴びせられても、どんなに厳しくされても蜷川さんを拒否する人はいません。それどころか一緒に仕事がしたいと、蜷川さんから声がかかるのを待ち望む人は多かったです」(演劇関係者)

 '14年に舞台『太陽2068』で初主演した綾野剛は、そのとき蜷川さんにこう声をかけられたという。

《必ず近い将来にとてつもない壁にぶち当たるだろう。そして、君がとことんまで落ちたときこそ、僕の出番だと思っているよ》

「そんなことを言われたら、どんなことがあってもこの人についていくと思うでしょうね」(演劇関係者)

 15歳のときに蜷川さんに見いだされ舞台『身毒丸』の主役に抜擢された藤原竜也をはじめ、渡辺謙、大竹しのぶ、宮沢りえなど、蜷川さんの薫陶を受け、実力派俳優として開花した人も多い。

「16歳のときに舞台『盲導犬』に出演した木村拓哉も、その後、俳優として確固たる地位を築きました」(映画プロデューサー)