伝説の深夜番組『11PM』に登場!

 学生時代からジャズファンの会報誌に寄稿するなどしていたが、ジャズ評論家として身を立てることを決意した巨泉さんは、大学中退後、知り合いのツテでジャズを専門とした月刊音楽雑誌『スウィング・ジャーナル』の原稿を書くようになる。また生演奏を売りものにするジャズ喫茶が登場すると、司会の仕事を頼まれた。曲の解説を加えながら、ユーモアを交えて進行する司会ぶりは評判となり、進駐軍倶楽部の仕事も入った。

 のちに巨泉さんが設立したプロダクションを引き継ぎ、約50年にわたり巨泉さんを支えた哲也さんが昔の思い出を語る。

「僕と兄は8歳離れていたので、子どものころはあまり一緒にいる時間はなかったんです。でも僕が大学時代、クラブ活動の連盟の関係で渡米することになり、お金がなくて行くかどうか迷っていたら、“哲、絶対行け!”と、10万円をポンとカンパしてくれました。

 自分だってアメリカへ行ったことがなかったし、ジャズ評論と放送作家のかけもちで余裕なんてなかったはずなのに。そんな頼れる兄貴でした」

 やがて巨泉さんが1000曲以上の歌詞レパートリーを持っているという噂を聞きつけ、日本テレビの音楽番組のディレクターが、画面に訳詞のスーパーをつける仕事を依頼してきた。これをきっかけとしてテレビの音楽番組の企画・構成をする放送作家として活動するようになる。

 1965年、日本初の深夜のワイドショーの企画会議に出席してほしいと言われ、日本テレビに出かけた。そこには永六輔、前田武彦、青島幸男ら第一線の放送作家がそろっていた。その番組とは、のちの『11PM』である。

 巨泉さんは、“仕事はいいことだが遊びは悪いこと”というのが通念の日本人に遊ぶことの大切さを知ってほしいと、これまでテレビで扱われなかった遊び、競馬や麻雀、ゴルフなどを取り上げたら?と提案したところ、“巨泉のなんでもコーナー”ができ、自ら出演することになる。そのころは今とは比べものにならないくらい保守的な風潮であったため、「テレビで麻雀とは何事か!」とクレームもきたが、おおむね「面白いじゃないか!」と好評だった。翌年、巨泉さんは番組の司会を任されるようになる。