もう待ちきれない! 病院を飛び出す

「これ以上、湾曲すると関節への負担が大きくなり、歩けなくなる可能性があります」

 かかりつけの医師にそう宣告され、2度目の大手術をすすめられたのが中学入学前。小学校を卒業し、最初の1学期を病院で過ごした。しかし、負けず嫌いも手伝って一層勉強し、高知追手前高校に進学。地域でも上位の進学校だ。

「中学時代は学校と家の往復だけ。勉強ばかりしていたから成績はよくて、『箱入り娘』どころか『金庫入り娘』でしたね。母は私が自立できるように、厳しく育てていたんだと思います。

 高校に入り、吹奏楽部、美術部、合唱部、文芸部と、部活動をいくつもかけ持ちして、寄り道も覚えました。本来の資質が出てきたんですね(笑)」

 当然、成績は下降線をたどり、医学系への進学は遠のく。

「絵や音楽に打ち込むことで自分の存在価値を確認していました。脚の状態は相変わらず悪く、どうしても周りに迷惑をかけてしまう。でも、夢中になるものがあると忘れることができたし、楽しかった。芸術家になりたいという夢を持ちました」

 高校卒業を控えたころ、医師から3度目の手術の打診があった。脚延長術という骨をのばすための手術だ。3度目の手術のためには半年の入院が必要だった。

「手術は嫌だけど、脚の骨を長くすることができれば、運転免許も取りやすくなる。少し休むつもりで、手術してみようと思いました」

 福岡の九州造形短期大学美術科に進学を決めてから1年間の休学。期待を胸に、未来のために手術に臨んだ。

高校卒業後、脚の内部のビスと外側の金属をつないで固定していたころ。入院中も退院後も、両親は気分転換のために外出許可を取り、車であちこちへ出かけた
高校卒業後、脚の内部のビスと外側の金属をつないで固定していたころ。入院中も退院後も、両親は気分転換のために外出許可を取り、車であちこちへ出かけた
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 今思い返せば、それまでの3度の手術はどれも骨のもろさや成長を計算に入れていたとは思えない。医師も前例がない手術のため、予後の経過がどうなるのか、見通しが立たないまま手術に踏み切るしかなかったのだろうか。その折々では精いっぱいの処置だったのかもしれないが──。

「3度目の手術は、創外固定術。金属を骨に通して串刺しにし、肉を突き破って飛び出た金具を外で固定するものでした。傷口の消毒のとき、母は直視できませんでしたが、私は『うなぎの蒲焼』だと言っておどけたものです」

 夢中になれることが見つかり、福岡での学生寮も決めて自立できる目処もついていた。希望に胸は膨らむばかり。情熱は身体を焼き尽くすほどに燃えたぎっている。

 しかし当初は半年の予定が、1年たっても完治しなかった。

「もう待ちきれない」

 両脚の金属を隠すように包帯で太くぐるぐるに巻き、車イスの状態で福岡へ飛んだ。学生寮でのひとり暮らしを見切り発車で始めたが、1か月後には脚の内部で金具が折れ、緊急入院。その後も退院しては無理をして緊急入院を何度も繰り返した。

 それでも和泉さんは常に笑顔。患者や看護師から慕われ、自然と人が集まった。

 しかし、その笑顔の裏で和泉さんは自分の気持ちと体調の板挟みになり、必死に闘っていた。さらに1年の休学をすすめる医師や家族の言葉に、首を縦に振ろうとはしない。

「一刻も早く福岡に戻る」

 そこだけは譲れなかった。