子どもはみんな芸術家だった!

 工芸科でグラフィックデザインを専攻した茅子は、授業に出るかたわら、アルバイトに精を出した。稼いだお金の主な使い道はスキーだった。

「大学1年のとき始めて滑って以来、その魅力の虜になり家具のデザインや時計屋の手書きのポスターを描くなど、割のいい広告のアルバイトを掛け持ちしました」

 そうして貯めたお金を持って長野県白馬村へと向かった。

「決してうまくはありませんでしたが、転んで転げ回るのが楽しかった。人に教わるのが嫌いだったので、滑り方はすべて自己流。板は2度折ったことがありましたが、脚は1度も折りませんでしたよ」

 当時の仲間に大学卒業後に結婚する西巻良雄もいた。

「同じ工芸科でスキーにもよく一緒に行っていました。社交的でとても楽しい人でした」

 と美術の予備校時代から60年以上も親交のある桜内邦子さんは話す。

 就職も平凡社に決まり、グラフィックデザイナーとして、茅子は新しい一歩を踏み出そうとしていた。

「ところが新人は3人もいらないから2人でいい」

 と言われ突然、就職先を失う。しかし茅子は、めげなかった。

「実は大学を卒業するころ、私はグラフィックデザインという仕事に疑問を感じていました。他人の依頼でものを作るということが、わがままに生きてきた私を不安にさせたのだと思います。当時アルバイトがたくさんあって、会社に勤めるよりも収入を得ることができましたから、ある意味ほっとしました」

 雑誌にカットを描いたりレイアウトをする一方で、茅子は何か定期的な仕事で安定した収入を得たいと考えた。

「小さかったころ、父がアトリエで子どもたちに絵を教えていたのを思い出し、私もやってみようと軽い気持ちで始めました」

 これが、茅子が絵本を描く「原点」となる子どもたちとの出会いだった。

亡き父から受け継いだ机で今も描き続けている。子どもたちのように、楽しみながら描くことが大切という

 その当時、結婚して松原の実家から近い下高井戸に住んでいた茅子は赤堤の幼稚園にかけ合って土曜日の午後、ホールの一室を借り「子どものアトリエ」を始めることになる。幼稚園でチラシを配るとさっそく10数人の子どもたちがやってきた。

 茅子が、「なんでも好きなものを描いてね」と言うと、子どもたちは嬉々として描き始めた。すると生き生きとした絵が次々にできあがる。

「3枚も4枚も、一気に描いてしまう子もいれば、ゆっくりひと筆ずつキレイな模様を描く子もいる。テレビのアニメの主人公、ゾウやキリンを描く子もいる」

 次の週までに、それぞれの絵の裏に親へのメッセージを書く。ほとんど褒め言葉ばかり。こんな素敵なアルバイトがあってもいいのか、と茅子は思った。

 そして何よりも茅子を驚かせたのは、子どもたちの描く絵の素晴らしさだった。

「どの絵も当時、美術館やデパートで展覧会をしているフランスの近代絵画に劣らない“本物の表現”ばかり。ひとりひとりが自分の心にあるものを迷わず表に出している。

 子どもはみな、芸術家だったんです」

 人間はみな、素晴らしい絵が描けるではないか。それなのになぜ、大人になると描けなくなるのか。どうして幼い子どもができる生き生きとした表現を私たちは失ってしまうのか。茅子は不思議でならなかった。