私も絵本を描いて売り込みたい

 信じられないかもしれないが、当時の日本には数えるほどしか絵本はなかった。たまに見かけても民話に挿絵をつけたものか、幼い子ども向けの童話に挿絵を大きく描いたものばかり。

「そんな中で長新太の『いそっぷのおはなし』と、田島征三の『ふるやのもり』の2冊の絵はまるで、アトリエの子どもたちが描いた絵のようで新鮮でした。こういう絵を描いていいのなら、私も絵本を描きたいと思いましたが、絵本の出版社はどこも知りません。いずれ売り込みに行こうと考え、版画なら同じ絵が何枚も刷れるので、リトグラフ(石版画)を始めました」

 銀座にあった版画工房に通いだした茅子は、子どもたちのように、思い切り描いてみると、自分でも思いがけない面白い絵ができあがった。

 そんな茅子の作品を見て、日本版画協会展に出品するように工房の先生にすすめられた。5点作って出品してみるといきなり「奨励賞」を、翌年には「新人賞」を受賞する。

 しかも子どもたちにも負けない元気な絵に注目したのは、版画協会の人ばかりではなかった。1967年5月、茅子のもとに、絵本の出版社「こぐま社」から1通の手紙が届いたのである。

「売り込みをする前に出版社から“絵本を描かないか”と連絡が来て、私は喜び勇んで出かけました」

「こぐま社」はこのとき創立2年目で、日本の子どもたちのために新しい絵本を出そうという情熱にあふれた人たちが集まっていた。

「なんでもいいから好きなテーマで絵を描いて持ってきなさい」

 と言われた茅子は、母がよく使っていた洋裁箱の中のものたちを登場させた絵を何枚か描いた。何回か足を運び、話し合っているうちに著者の中村成夫さんがストーリーをまとめてできあがったのが初めての絵本『ボタンのくに』である。

本屋さんに自分の本が並んでいるところを見たかったけれど、堂々と見るのが恥ずかしかった。でも今改めて見ると計算して描いていないよさがあちこちにあって、とても魅力的。この本を長年売り続けてきたこぐま社には、とても感謝しています」

仕事の合間に、アトリエの外の庭にたたずみ、気分転換するのも楽しみのひとつ

“図書館にいつもない絵本”

 茅子には、大きな夢があった。民話や童話に絵をつけるだけの絵本ではなく、絵が素敵だからページをめくりたくなるような「絵で語る絵本」を作りたかったのである。

 それはまだ誰も作ったことのない挑戦だった。

「私はものを考えるときクロッキーノートを開いていたずら描きをしながら考え事をする癖があります。そのノートに『三角形の服を着たうさぎの絵』があったんです」

 これだと思った茅子は、その絵を見ながら、無心に手を動かした。

「私は三角形の服を着たうさぎが、次々と服の模様を変えるストーリーを考え、それをこぐま社に持ち込みました」

 ところが、このストーリーを誰も褒めてはくれなかった。

「それどころか、花畑を散歩するだけでどうして花模様になるのかわからないからもう1ページ入れて理由を説明する必要があると言われ、絶対イヤだと思い相当、頑張って自分の考えを押し通しました

 どこにもない、新しい発想の絵本を作った。

 そんな自信にあふれた『わたしのワンピース』だったが、発売当初は誰にもそんなふうに評価されることはなかった。現在、こぐま社の担当編集者である関谷裕子さんは、こう語る。

「実は入社したてのころ、正直私にもよさがわかりませんでした。ところが結婚して2人目の子どもに読んであげると『くさのみって とっても いいにおい』のところで子どもが私から本を奪い取って顔を埋め“いい匂い”と言ったんです。その姿を見て、先生の意図する意味が初めてわかりました」

 これが絵の魅力で読ませる絵本というわけか。

 やがて発売して5、6年がたったころ、朝日新聞の子どもの本の紹介コラムに「図書館にいつもない本」として紹介されると、『わたしのワンピース』は売れ始めた。

 やがて10年が過ぎるころにはベストセラーとなり、西巻茅子の代表作と呼ばれるようになる。

大人には理解できないけど子どもたちが自分で選んでくれた。こんなにうれしいことはなく、思わず“ヤッター”と叫んでしまいました」

代表作となった『わたしのワンピース』(こぐま社)※記事の中で画像をクリックするとamazonの紹介ページに移動します

 この後も『ちいさな きいろい かさ』(金の星社)で、第18回産経児童出版文化賞を受賞。さらに、『はけたよ はけたよ』(偕成社)が大ヒット。’70年代になって多くの出版社が絵本を手がけるようになると、茅子は一躍、人気絵本作家として依頼が殺到するようになった。

 その矢先、茅子は子どもを授かったことを知る。