ぶきっちょな父、お嬢様な母

 昭和21年の夏、焼け残っていた世田谷の家に戻ると、茅子は地元の松沢小学校に入学。

 すると、まもなく父が戦争から無事に帰ってきた。

父はぶきっちょで絵しか描けない人でした。母はお嬢様育ちで貧乏絵描きの所に来てから洋裁をしながら、家族5人を食べさせるのに必死でした。“いつかおとうちゃまは、えらい絵描きになる。それまでは自分が働こう”と考えていたのではないでしょうか」

 そんな忙しい母の手伝いをさせられたのが3人の娘たちだった。

「買い物を頼まれ、そこが友達の家だと嫌でしたね。ウチはツケばかりでしたから。母方の祖父が、よく燃料屋や酒屋に寄ってツケを払っていってくれたようです。

 それでも父は毎日、一生懸命絵を描き続けていました」

 ぶきっちょで、毎日絵しか描かなかった父。そんな父の代わりに懸命に働いた母。

 そんな父が亡くなり、

「やっと母は解放されたのだ」

 と茅子はずっと思っていた。

 ところが晩年、80歳を過ぎた母が父について、「私はいい人と、結婚したと思うよ」と言った。そのときの言葉が茅子は今でも忘れられない。

父母と姉妹家族と。写真左端が父と母、右端が西巻さん

 地元の松沢中学に進学した茅子は、

「おてんばだったので何かやりたかった。そこでバレーボール部に入部しました。田んぼを埋め立てて作ったグラウンドなので、みんなでお風呂屋さんから石炭ガラをもらってきて、グラウンドに撒いたのも懐かしい思い出です」

 勉強はあまりしなかったものの成績は優秀。進学校として当時有名だった都立駒場高校へ進学する。

「受験雑誌に載るような高校で、予習していないと授業に出られませんでした。女子が多く、まじめすぎる校風になじめませんでしたね」

 3年に進級してからは、午後は美大に進学するために、お茶の水にある予備校に通った。

「勉強よりも絵を描くことが好きでしたから。でも絵で食べていくのは父を見ていて大変なのはわかっていましたから、デザインの世界なら仕事にも困らないと思って」

 努力のかいあって茅子は、2浪の末に東京芸大の工芸科に合格する。