憧れの早慶戦出場を目指し、大学を再受験

 小学校2年生の時、近所の友達に誘われたのをきっかけに、野球にのめり込み、高校、大学と本格的に野球を続けてきた。高校は東京の名門、甲子園の常連校でもある日本大学第三高校(日大三高)で過ごす。しかし、3年間で、公式戦出場は0。チームは甲子園最大ベスト16まで進んだが、私に甲子園の土を踏む機会は訪れなかった。

 甲子園に代わる大舞台を……。そう思い、六大学野球を次の目標に設定した。だが、実績も何も残してない私が、推薦で大学入学することなど不可能だ。ならば、学力で入ってやると、受験勉強に精を出す。六大学のことを知るうちに、早慶戦に惹かれていった。春と秋の六大学リーグのトリを飾る早稲田大学対慶應義塾大学の伝統の対抗戦。神宮球場を満員にできるのは、ヤクルトスワローズの試合以外では、早慶戦だけだろう。

 この大舞台で燃えつきたい。そんな思いが芽生え始めた。しかし、現実は甘くなかった。高校時代、ほぼ野球しかしてない。やはり肝心の学力が追いつかない。結局1浪の末、法政大学に入学。目指していた早稲田、慶應には遠く及ばず、心は折れていた。野球もこれで終わりにしようと考えていた。だが、たまたま点けたテレビから早慶戦が放送されているのを見てしまった。伝統のユニフォームと、満員の神宮球場。その迫力に、再び魅了された。いても立ってもいられなくなり、その場で、もう一度、チャレンジすることを決意する。

 そこから猛勉強して、2007年、慶應義塾大学文学部に入学。だが、部員は総勢200名近く。試合に出ることはおろか、ベンチメンバーの25人に入ることすら容易ではない。3年生の頃から少しずつだが、試合に出始めるが、私の立場はベンチに入れるか入れないかの狭間でいつも揺れ動いていた。幾度か公式戦に出場したものの、憧れの超満員での早慶戦はベンチで戦況を見つめるにとどまった。

 学生野球が終われば、一部の選手がプロや企業チームに進んでいく。もちろん実績のない選手に、次のステージなど用意されてはいない。野球が職業になるのだから、相応の結果も求められるし、それは仕方のないことだった。

 だが、自分の中に残るしこりみたいなものは、未だ強く感じていた。

 大学野球引退後、進路にはとても迷った。野球を続けたいという思いが強かったからだ。それも海外で。

今年度、所属する「ソノマ・ストンパーズ」が前期優勝を決めた直後の記念写真。前から二列目、いちばん左が宮寺さん
今年度、所属する「ソノマ・ストンパーズ」が前期優勝を決めた直後の記念写真。前から二列目、いちばん左が宮寺さん
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 小学生の頃、テレビを通じて、アメリカメジャーリーグの情報が連日放送されていた。選手の迫力、プレーのダイナミックさ、観客の盛り上がり方。特にマーク・マグワイアとサミー・ソーサの熾烈なホームラン争い。ブラウン管を通していても、日本とは違うアメリカ野球の魅力が伝わってくる。

 いつかは自分もアメリカで……。

 そんな思いを中学、高校、大学と抱き続けてきた。

 メジャー傘下のマイナーに所属することは、日本で野球を続けていくこと以上に難しい。そこで行きついたのが、独立リーグだった。