エジプト考古学を学びたくて教授を口説く

 3浪後、東大をあきらめ、早稲田大学第一文学部に入学。前述のとおり、どこにもエジプト考古学を学べる場がないことを知り愕然とする。

 そんなときメソポタミア文明の起源といわれるシュメール文明を研究している川村喜一教授の存在を知り、エジプトの勉強をして指導してほしいと直談判した。

「先生はしばらく考えてから、シュメールとエジプトとの関係についてそろそろ勉強しようと思っていたところだったからいいよ、と快諾してくれたのです」

 有志を集めエジプト研究会を立ち上げた。欧米の学者の古代文明の研究書を訳す勉強が始まる。

 吉村さんは半年ほどたつと、エジプトを知るには、何としても現地へ行かなければならないという思いが募り、そろそろエジプトへ行きませんか? と教授に持ちかけた。自らが隊長となってエジプト調査隊を組織する。

 ところが、エジプト行きを決めたものの先立つ資金がほとんどない。吉村さんは企業にかけ合い、川村先生の航空チケットを確保し、学生5人はタンカーでクウェートまで乗せてもらえるように交渉した。また自動車メーカーからジープを借り、食品メーカーからは大量の缶詰などを提供してもらう約束を取りつけた。

 こうして’66年の9月、一行は日本人として初めてのエジプト現地調査となるジェネラル・サーベイ(踏査)を実現する。ナイル川に沿ってほぼエジプト全域に広がる遺跡群を約半年間かけて2回にわたり調査した。大学3年生、22歳のときだった。

「7か月目に同じタンカーで三重県の四日市港まで帰ってきたとき、早稲田大学の仲間が出迎えてくれて、調査隊みんなで泣きました。僕はこれでエジプト考古学を確立するんだ! と決意を新たにしたのです」 

 けれど「オヤジが定年なので就職をしなければならない」「エジプトをやるなら彼女が別れると言う」「本当はアメリカへ行きたい」など、おのおのの事情を口にし結局エジプトの研究をやり続けるのは吉村さんだけとなった。

「2階に上がって、はしごをはずされたようなものでした」

 吉村さんはライバルがいなくなってラッキーだと思うことにして、ひとりで本格的にエジプト考古学を学ぶことを決心した。