年上妻の内助の功に支えられ

 話を昭子さんとの出会い直後のことに戻そう。

 駆け落ち同然で昭子さんの家に転がり込んだ垣添さんだったが、大切な医学書すらも手元にない。

「そうしたら何日かたって母親から電話がきて“医学書とか洋服とか持っていってちょうだい!”と。それで小さいトラックを雇って、彼女の家に運び込んで」

 そんな状況下でも垣添さんは着々とインターンとしての経験を積み、1969年1月に医師免許を取得。晴れて一人前の医師となった。同年3月、昭子さんの離婚成立をうけて杉並区役所に婚姻届を提出。2人は正式に夫婦に。

「結婚式も指輪の交換もしなかったね。彼女が再婚だったこともあったけど、当時はそんなお金もなかったし」

 新婚旅行から帰った直後、垣添さんは板橋区にある都立豊島病院に就職、泌尿器科の医師としての第一歩を踏み出す。

「彼女は津田塾出身で、英語が得意だったのね。私がアルバイト中で給料が安かったころは、子どもに英語を教えたりして生活を助けてくれた」

夫婦で出席する学会のパーティーでも、英語が堪能な昭子さんが盛り上げ役になってくれた。165センチの長身で、難しい色の服もさらりと着こなすセンスのいい女性だった
【写真】12歳年上妻・昭子さんとの仲睦まじい様子など(全9枚)

 1971年には専門外の外科での研鑽(けんさん)も積みたいと、埼玉県の藤間(とうま)病院に出向した。

「泌尿器科が診る腎臓や膀胱(ぼうこう)は腹膜という薄い膜の外側にあるんだけれど、当時の泌尿器科では、膜の内側の胃や腸の様子はまったく診ずに縫合してしまっていたの。私は必要があれば腹膜の中も診るべきだし、腸の手術もすべきだと。そのためにも、外科の知識と技術を身につけたかった」

 超多忙な勤務の中で、副院長ががん手術の際に見せる手技に魅了され、懸命に学び取った。垣添さんは生涯のミッションであるがんとの闘いに、足を踏み入れようとしていた。

 32歳になった1973年には東大医学部に戻り、泌尿器科文部教官助手に。膀胱がんを専門に選ぶ。さらには、

「膀胱がんがなぜ再発するのかを研究したかった。国立がんセンター研究所の杉村隆先生に連絡すると、“しっかりやれ”と受け入れてくれて」

 それからは東大泌尿器科での仕事を終えてから研究所に行き、11時まで研究に没頭する毎日。昭子さんはそんな垣添さんの帰宅を待ち、日付を跨(また)ぐ夕食に付き合ってくれたという。

「僕の仕事の重要性を理解していてくれてね。その間、昭子は1度も不満を言わなかった。ありがたかったですよ」

 34歳の1975年には国立がんセンター病院の泌尿器科医に採用される。カナダへの留学を経て40歳で同センター健康相談室長に。50歳のときには院長に上り詰め、医師120人、看護師600人、その他のスタッフ合わせて5000名を率いた。

 2007年、65歳で同センター総長を退任したあとは、名誉総長に就任している。

 東京医科歯科大学名誉教授で、現在は埼玉県の秀和会 秀和総合病院理事長を務める坂本徹さんは医師仲間としてこう語る。

「仕事に対しては厳しいことで有名です。僕は心臓外科出身で、この分野ではがんのような転移はまずありません。

 一方、がんは細胞レベルで見て初めて確定診断がつく病気で、診断が難しい。僕の専門の心臓病とはちがう点です。

 さらに垣添先生は国立がんセンターの病院長・総長として患者の負担を考えつつも、将来を見越した医療も開発しなければなりません。

 垣添先生はこうした難しい使命を貫徹されたうえで、対がん協会の会長をして、がんサバイバークラブで患者さんの支援体制まで作ろうとされている。すごい哲学であり、倫理観です」

 医師としての頂点ともいえそうな地位と、同業者からの尊敬。勝ち組中の勝ち組といえそうな、満ち足りた人生。

 そんな垣添さんが、自死を考えるような苦しみに襲われる。それこそが最愛の人・昭子さんとの別れだった──。