「母が認知症になってからは、あんなに得意だった料理もしなくなって。青白い顔で座っているだけ。でも、私がサポートしながら台所に立つと、料理を完成させることができたんです。すると、認知症になる前のように豊かな表情になって、母には感情が残っているって、うれしくなりました」
脳科学者・恩蔵絢子さんの暮らしの工夫
そう語るのは、脳科学者で、東京大学大学院総合文化研究科特任研究員の恩蔵絢子さん(46)である。恩蔵さんの母親・恵子さんは65歳だった2015年、認知症と診断された。恩蔵さんは娘としてだけでなく、脳科学者としても、約8年にわたり母親の認知症に向き合ってきた。認知症になると表情が乏しくなったり、家族など、人への関心が低下したりするといわれるが、研究者の視点で暮らしの中に工夫を凝らし、もともと母親が持っていた優しい感情を取り戻すように関わった。
例えば、恩蔵さんが出かけようとすると、母親は「雨が降りそうだから傘を持っていきなさい」とか、寒そうだったら「上着を持っていきなさい」と声をかけてくれた。風邪をひいたら、おかゆを作ってくれることもあった。
「認知症を“治す”という視点をはずせば、できることはたくさんあると気づきました。認知症は進行性だといわれますが、悪くなるだけではない。工夫次第で、それまでやってきたことをまたできるようになる場合もあるし、その人らしさを取り戻せる可能性があると発見できました」
ただ、最初からポジティブに母親の認知症を受け入れられたわけではない。異変を感じた当初は、何のために脳の勉強をしてきたのか、なぜ防げなかったのか……と無力感にさいなまれ、自分を責め、たびたび涙をこぼしていた。そんな「否定する期間」が10か月ほど続いたという。
恵子さんに物忘れが目立ってきたのは'14年のこと。
恩蔵さんは実家で両親と3人暮らし。研究職は忙しいので、身の回りのことは母親任せで、買い物を頼むことも多かったのだが、買い忘れることが少しずつ増えていった。翌'15年になると、立ち止まって“うん?”と言いながら後頭部に手を当て、ポリポリと掻くしぐさが増える。「どうしたの?」と聞いても、「なんでもないのよ、なんだったかしら」とごまかしていたが、明らかに何かに困っていた。
桜のシーズンには、「絢ちゃん、今日は桜が満開!」と言うのだが、よく見ると五分咲き程度だったことも。
得意だった料理もできなくなった。恩蔵家ではみそ汁の大根は短冊切りだったが、なぜかいちょう切りに変わっていた。のちに、料理を始めても、途中で何を作っていたのかわからなくなるらしく、キッチンに立つこともできなくなった。家族が好きな冷凍チャーハンを買ったこと自体忘れて何度も購入するため、冷凍室にたまる一方だった。
最初は、「そんなことができないはずない、どうしちゃったの?」と母のことを無意識に責めていた。だが、徐々に認知症だと認めざるを得ない状態に。それでも当時は受診させる気にはなれなかった。
「もし認知症だと診断されても、病院でできるのは対症療法以外にはないからです。それに母が母でなくなってしまうような気がして怖かった。自分を絶対的に守ってくれた人が私のことを忘れてしまうんじゃないかって」
しかし異変から10か月が過ぎた'15年秋、決定的なことが起きる。恵子さんは合唱団で活動しており、毎年秋になると、大きなホールで行われる発表会に参加していた。合唱が始まると、信じられない光景を目にする。
「母の前には楽譜が置いてあるんですが、今、楽譜のどこを歌っているのかを何度も隣の人に聞いているんです。母はピアノの先生をやっていて、初見で楽譜が読めるし、何度も練習していたはずなのに……。ホールで一緒に見ていた父と病院に連れていこうという話になりました」























