次は、私が母の安全基地になる!
そんな葛藤があっても、母親の介護を前向きにできるようになったのは、幼少期に母親から受けた安全基地の体験があったからである。その恩返しをと思ったのだ。
恩蔵さんは'79年、神奈川県に生まれた。3つ上の兄と2人きょうだいだ。
「子どものころは、電車の中でじっとしていられず、“ママー!”と叫びながらうろちょろしていたようです。母は注意をしなかったけど、困っていたと思います。警戒心ゼロで、欲望のままに暴れ回る“赤鬼”みたいでしたね」
母・恵子さんは基本的に恩蔵さんを自由に育ててくれた。いろいろなことをやらせては何に興味を示すのかをじっと観察していたという。
恩蔵さんが、“安全基地”を初めて実感できた思い出は小学4年生のとき。塾の日は母親のピアノ教室にランドセルを置き、鞄を持ち替えて塾に向かっていたが、その日はピアノ教室が閉まっていた。運悪く教室の鍵を忘れて中にも入れない。
母親は待てど暮らせど来なかった。塾に行けないまま、電車が駅に着くたび母の姿を探しに行くが、そのうち辺りは真っ暗に。8時になり9時になる。10時になったとき、ようやく母親が兄と一緒に駅から出てきた。母親は暗闇の中に立つ娘を認めたとき「なんで、ここにいるの?」と驚いた。恩蔵さんが事の次第を話し、
「私、ここで待ってたら絶対会えると思ったんだよね」
と言うと、母親は涙をポロポロ流し、ごはんも食べず、暗い中1人で待っていたのかと泣き崩れてしまった。母親は兄の中学生活で必要なものを買いに都内に出かけ、友達と食事し、娘の塾が終わる時間に合わせて帰ってきたのだ。
「私は涙の意味が全然わからなかったんだけど、私のことをすごく大事に考えてくれていると感じたことを強烈に覚えています。母にこんなに守られているんだって。絶対的安全を実感した最初の体験かもしれません」
友人の裏切りから人間不信に
恩蔵さんは画家になる夢を持っていたため、美術系の中学を受験したのだがうまくいかず、別の中高一貫校に進学した。だが、ここでつらい出来事に直面する。中学時代に交換日記をしていた相手の子が、クラスメートに日記を見せていたことが発覚したのだ。
ショックで人間不信になり、人にどう見られているのか必要以上に気にするようになっていく。言いたいことが言えなくなり、赤鬼ぶりは鳴りを潜めた。また、その学校が進学校だったので、高校生になると多くの生徒が受験モードに。恩蔵さんはそれについていけなかった。
「大学に入れなかったら、私の将来はダメになっちゃうような気がして、怖かったんです。受験に邁進する同級生の中で、会話にもついていけなくなって、休みがちになり、保健室登校が増えました」
母親は心配し、娘を精神科や鍼灸、マッサージなどに連れていった。だが、一向に改善せず、むしろ反抗的になっていく。出席日数が足りず、大学進学すら危ういという焦りもあったのだろう。
八方ふさがりになった恩蔵さんはある日、居間で母親と口論になる。そのうち恩蔵さんは“私は終わったんだ”という気持ちになり、母親はやれることはすべてやった、私にできることは娘を抱き締めるしかない……と思ったのか、突然ハグしたのである。
「赤ちゃんのとき以来のハグでした。母親の安全基地を実感した2回目です。抱き締められながら2人で泣いていたら、不思議なことに、私、“なんか大丈夫だ”と思えたんです。自分がたとえ受験に失敗してすべてをなくしても、守ってくれる、最悪の状態の私であっても母は見捨てないで愛してくれているってことを実感できた。そうしたら、受験してみようかと思えて……。で、また受験勉強を始めて、なんとか大学に合格できたんです」


















