4つの夢を胸に、お金を貯めて上京

 中学生のころからマンガの同人誌に寄稿していたみとは、地元の女子校・土浦二高に進学するとアニメにも興味を抱き『アニメ外伝をつくる会』を結成。既存のアニメのアナザーストーリーを同人から募り、その物語に可愛い挿絵やイラストをちりばめた10ページから20ページの同人誌『FRAME OUT』を発行するようになる。

 活動をともにした同級生の矢野みどりさんは、

「当時の彼女は同人誌の会員募集から、印刷といった雑務まで、すべてをたったひとりでやっていました」

 と、その行動力を絶賛。中でも忘れられないみとのエピソードがいくつかある。

「’80年代初頭、始まったばかりのコミケ(コミックマーケット)に出店することが決まり、みとさんは当時人気のあった『未来少年コナン』に出てくるラナに扮して真っ赤なワンピースを着て会場に登場。注目を集め、その姿がアニメ雑誌でも取り上げられました。当時はコスプレする人がまだ少なかった時代でしたから、衝撃的でした。もちろん同人誌は完売でしたよ」

 さらに、人気のあったアニメ誌『ジ・アニメ』に自分たちの同人誌を売り込みにいき、掲載されたこともあった。

「大好きだった『未来少年コナン』を作った宮崎駿監督の会社に押しかけていったこともありました。思い立ったら突っ走る。とにかく行動的な女の子でした」

 高校3年になったみとは、芸大と多摩美大の日本画科を受験するも失敗。しかし、これくらいのことではへこたれなかった。

 1年間、茨城県庁の記者クラブでお茶汲みのアルバイトをして貯めたお金を手に、親の反対を押し切り上京する決心を固める。

「このころは、漫画家以外にも絵本作家、小説家、特撮が好きだったので映画監督になる夢も見ていました。

 同人誌を一緒にやっていた大阪の女の子と東京・大泉学園にアパートを借りると、NHKの大河ドラマや朝ドラでエキストラのアルバイト。ほかにも持ち込みをした雑誌社からイラストの仕事をもらってなんとか生活していました。財布や通帳に千円ないなんてこともよくありましたね(笑)」

 お金がなくたってくじけない。19歳のみとは夢いっぱい。悩んでいる暇などなかったのである。

 そんなみとにデビューするチャンスがやってきたのは、21歳のときだった。

 1985年夏、みとは、マンガ雑誌『ASUKA』(角川書店)から16ページの恋愛もの『ベストガールになりたいの』でデビューする。

「投稿雑誌『ファンロード』に掲載されていた私のイラストを見た女性向け同性愛マンガ誌『JUNE』の編集長が、『ASUKA』を紹介してくれました。ペンネームの“折原みと”は、音の響きが好きで高校時代から使っていたものです」

 イラストを描いていた雑誌社から「今度マンガ雑誌を創刊するから描かないか」と誘われ、さらに『少女フレンド』に持ち込んでいたマンガの掲載も決まるなど、漫画家・折原みとは、たちまち売れっ子になった。

「もちろん、まだ漫画家として将来の保証は何もない。ヨチヨチ歩きのひよっこでしたが、“ダメでもともと”と楽天的でした。自分の描いたマンガが雑誌に載ったり、深夜に近くの喫茶店で編集者と打ち合わせをしたりするのがうれしくてしかたがなかったんです」

 とデビュー当時を振り返る。中目黒に引っ越したのもこのころ。当時の中目黒は、ハイソな代官山の隣にある下町っぽい感じの街。1987年、小説デビュー作となった児童小説『ときめき時代 つまさきだちの季節』(ポプラ社)を書いたのも山手通り沿いのマンションだった。

「中学生の女の子の友情と恋を描き、6冊のシリーズ本になった作品。自分自身の中学時代の思い出をもとに、夢中で物語を綴(つづ)る時間は至福の時間でした」

 少女小説の挿絵を担当したことがきっかけで、執筆にも興味を持ったみとは、持ち前の好奇心から「自分も小説を書いてみたい」と猛烈にアピールした。

「アシスタントが必要なマンガと違って小説はひとりで深く入り込める世界。魅力を感じて書いているうちに、いつの間にか二刀流になっていました」

 デビューから12年間暮らした中目黒での生活はみとにとってかけがえのない思い出。

「深夜に打ち合わせをしたアートコーヒー。徹夜明けの朝、屋上から見た朝日。西郷山公園から見た夕焼け。そして目黒川の桜並木。中目黒は私の夢が生まれた街。小説の舞台として何度も描いてきました」

デビュー後、12年間暮らした中目黒の自宅兼仕事場にて。忙しい仕事の合間に飲み歩くのも楽しみのひとつだった
デビュー後、12年間暮らした中目黒の自宅兼仕事場にて。忙しい仕事の合間に飲み歩くのも楽しみのひとつだった

 そんな中目黒での暮らしの中から、1990年、みとにとっても思い出深い“命”をテーマに書いた小説『時の輝き』が生まれる。