美容師になるつもりはなかった

 川邉サチコさんは昭和13年、東京の日本橋で生まれたちゃきちゃきの江戸っこ。

「実家はたくさんの従業員がいた綿布問屋。母は帳場を管理するおかみでした。4人きょうだいの長女だった私に対して、母は鬼かと思うほど厳しかったわね。父が出かける準備を手伝ったりは当たりまえのようにやらされてました」

 サチコさんは小さいころから、自分の好みに関しては譲ることがなく、母が買ってくれた洋服の色が気に入らないと、自分で別の色に染めて、怒られたこともあるという。

 女子美術大学を卒業後、22歳で結婚。それが大きな分岐点となった。

「高校時代から付き合っていた相手と結婚するときに、相手が美容家のおうちだとわかったんです。だけど、“私は美容師にはなりません。それでもいいですか?”と聞いてから結婚したんですけどね」

 婚家は美容業界の老舗で、義母はヨーロッパからエステの技術を学んだ伝説の美容師・芝山みよかさん。

 結婚して早々、サチコさんは、義母から「パリに行くけど、一緒に行かない?」と声をかけられた。

「当時、飛行機に乗るというだけで、親戚中が万歳して送り出してくれるような時代だからね。私も“行ってみたい”とついていくことになった。それでパリのメイクアップの学校に通訳付きで入れられたんです。ジャン・デ・ストレーという画家でもあるメイクアップアーティストの先生が、立体的に顔をペイントすることから教えてくれてね。私は美術学校を出てるから、“面白い!”と興味が湧いたんです。お義母さんは私を美容師にするつもりでパリに連れて行ったんでしょう。まんまとそのとおりになっちゃったわね」

結婚後、義母で美容家の芝山みよかさんとパリへ。現地でメイクアップの学校に入り、基礎から舞台用のメイクまで習った

 約1か月学び、メイクのライセンスを取って、帰国。

「まだ私なんて何もできないのに、周りにベテランスタイリストがいっぱいいたから、くっついていって、現場で修業させられたって感じなの」

 懸命に仕事をする中、サチコさんは腕をあげていったが、そのころ、美容の仕事の地位はまだ低く、悔しい思いをすることも多かったという。

「“結髪さ~ん”と呼ばれて、“冗談じゃねぇよ!”と頭にきて、途中で帰っちゃったこともあるわね(笑)。ヘアメイクと呼ぶべきでしょう。マネージャーさんに“そんなことしてると仕事はなくなりますよ”と説教されたけど。“それでけっこうです、頭下げなくても仕事くるようになるまで頑張ります”って言ってやったの。おかげでしばらく干されちゃったけど。でもそこで踏ん張らなかったら、私たちの仕事の社会的地位は上がらなかったと思うわ」

 クリスチャン・ディオールのオートクチュールやニナ・リッチ、イヴ・サンローランなどが日本で出店するときに行ったファッションショーで、ヘアメイクを担当し、「彼女のメイクは斬新で面白い」と一躍注目を浴びた。それから、映画、演劇やイベント、CMなど、さまざまな分野で、引っ張りだこの存在になり、“ヘアメイクアップアーティスト”としての地位を確立。

後に劇作家の寺山修司さんから口説かれ、アングラ演劇の舞台メイクも担当

「遅くまで仕事をしている人たちにも来てもらえるように深夜0時まで開店する美容院を南青山に開いて、コシノジュンコさんたちとファッションのコミューンみたいなものを作ったりして、どんどん深みにはまっていっちゃった」

 昭和38年、娘のちがやさんを出産後も、フルパワーで稼働。ベビーシッターを雇い、寮のある学校に入れて、国内外を飛び回った。