「軟禁生活」で夜逃げを決意

 18歳で熊谷にある視覚障害者の鍼灸学校に入学。鍼灸の資格を取れば、自立への道が開けるはずだった。しかし、その在学中に想定外の事件が起こってしまう。

 学校の寮に入っていた昌美さんは、1つ下級生の女子と同室だった。週末は実家に戻らず、次第に東京にある下級生の家に泊まり込むようになった。

 そのうちに、彼女の兄に迫られるようになる。まずいと思い相手には避妊具を渡していたが、まさかの妊娠。「どうして?」と頭を抱えた。

 昌美さんから妊娠を告げられたとき、二三子さんは「ふざけるな!」と怒った。昌美さんは若く、自立もしていない。相手も30歳を過ぎて実家暮らしのフリーターだ。信用に足るとは思えなかった。とうてい賛成できる話ではない。堕胎させるつもりだった。

 だが病院で子どもの心音を聞かされた昌美さんは、「この子は生きて生まれたいと頑張っている。それを殺すなんてできない!」と強く思った。

「子どものころからずっと、温かい家庭に憧れていました。子どもが生まれれば、相手の男性も変わるという浅はかな期待もあったんです」

 親戚中から堕ろせと責められたが、昌美さんの意思は変わらなかった。二三子さんは「結婚するなら、お前は私の娘じゃない。2度と帰ってくるな」と言って娘を追い出した。

 昌美さんは「当時の判断は甘かった」と振り返る。生活力のない夫と無職の昌美さんは、夫の家族と同居するしかない。もともと昌美さんを快く思っていない姑からは、毎日「お産で死んじゃえばよかったのに」「役立たず」などと罵倒された。携帯も取り上げられてしまい、与えられた部屋は四畳半ほどだ。

 今では料理が得意な昌美さんだが、当時は自炊ができなかった。食事は1日に1食、カップラーメンを与えられるだけ。

「夫は事なかれ主義で味方をしてくれないし、軽い軟禁状態でした。とうとう空腹と精神的苦痛で幻覚が見えちゃって、気づけば公園の砂場で砂をかじっていました。

 さすがに、“このままでは殺される”と思うようになって……」

 ある日、散歩に出るふりをして、そのまま子どもを抱いて家を出た。12月の寒い日だった。ジーンズに通帳や身の回りのものを突っ込み、実家に向かった。「ああ、着の身着のままって、こういうことを言うんだな」という妙な実感を胸に─。

 昌美さんが子どもを抱いて帰ってくると、二三子さんは驚き「なにがあったの!?」と叫んだ。

 落ち着く間もなく数日後には、夫の家族が「孫を誘拐された」と言って乗り込んできた。警察に手を借りて帰ってもらったが、離婚は調停にまでもつれ込んだ。

 離婚と親権を争う調停で、裁判官からは「働いた経験もなく障害がある母親が、子どもを育てるのは家庭の協力なしには難しいだろう」と告げられた。結論は昌美さん本人ではなく、二三子さんに委ねられたが、「うちで育てるのは難しい」と親権を譲ってしまう。

 母は娘に「勝手に決めてごめんね」と土下座した。

 その姿を見た昌美さんは猛烈な罪悪感を抱く。親権をとれなかったのは自分が自立をしていないせいだ。まずは働こうと決意し、3万円を握りしめ単身、東京へ出た。

「負けず嫌いなので競争とかで負けると死ぬほど悔しい」と昌美さん
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