「自立」して娘を取り戻したい!

 上京した昌美さんは、なんとか派遣の仕事を得た。

 契約社員として最初に入社したのは、大手エステの本社だった。段ボール何箱分もの伝票を数えるだけの仕事。8か月ほどで経営が傾き、解雇になった。

 次に土木系の企業に入ったが、職場では「君の仕事はそのイスに座っていることだよ」と言われてしまう。

毎日、眠気と闘うだけ。電話応対の仕事を与えられましたが、ビジネス電話機のライトがいくつも光ると、どのボタンを押したらいいのかわからないんです。“使えないな”って言われて。2年目になると、“クビにすると体裁がよくないから契約満了ってことにしてやめてほしい”と言われました」

 当時はまだ障害者差別解消法などなく、職場で“合理的配慮(障害者個人の能力に合わせて状況や対応を変えること)”を受けることもなく、あからさまに差別発言が飛び交った。

24歳の誕生日。会社員として働くことに限界を感じていた
24歳の誕生日。会社員として働くことに限界を感じていた
【写真】松田昌美さんの幼いころ、OL時代など(全10枚)

 その後は、大手IT企業の子会社で勤務。またもや心ない言葉に傷つけられた。

「郵便の仕分けとか、出退勤管理をしていましたが“なんだ、聴覚障害よりもコミュニケーションとれると思ったのに使えないね”って言われる。足が悪いのでラッシュの通勤電車に乗るのが厳しくて“就業時間を1時間遅らせてほしい”と頼んでも“見栄えがよくないから”と許可してもらえない。耐えられないほどつらくなって1年8か月で退職しました。パソコンを使えないと、まともな仕事がもらえないと、ようやく気づいたんです」

 昌美さんは28歳で、視覚障害のある人向けに音声読み上げパソコンを使って一般事務の技能を教える支援センターに通い始めた。

 そのころ、人生を変える出会いがあった。知人から「Co-Co Life☆女子部」という障害者や難病の女性向けのフリーペーパーを紹介されたのだ。そこに読者モデルとして参加するようになる。あるとき、編集部の守山菜穂子さん(43)に、「座談会のテープ起こしできる?」と聞かれた。即座に「やったことないけど、できます!」と“安請け合い”した。このチャレンジがブラインドライターへの第一歩だった。

「Co-Co Life☆女子部」でメンバーと(右奥から2番目が本人)
「Co-Co Life☆女子部」でメンバーと(右奥から2番目が本人)

 その後、守山さんから紹介された出版関係者に細々と仕事をもらうようになった。守山さんは彼女を「ブラインドライター」と名づけ、無料ソフトでホームページを作成。それがSNSで話題になり、大ブレイクした。昌美さんのもとには取材やテレビ出演の仕事が舞い込むようになる。

 当初はひとりで受けていたブラインドライターの仕事も手が回らなくなり、今では「ブラインドライターズ」は総勢10数名の大所帯だ。

 ブレイク前から昌美さんを応援している守山さんは彼女の印象をこう振り返る。

初めて出会ったとき、昌美さんは、いわゆる『可愛い系』のOLでした。ピンクのワンピースを着ていて、茶髪のゆる巻き髪。今まで自分が視覚障害者に対して描いていたイメージとは全く違ったんです。すごく興味が湧きましたね。人なつっこくて、何を聞いても快く答えてくれる素直さがあって。一方で自分を大きく見せようとするところもあった。話を盛れば盛るほど、仕事に恵まれていないのが周囲にバレてしまうのにね。当時は自分に自信がなかったのでしょう。でも今は、等身大でいいんだと気づき始めているんじゃないかな」

 昌美さんは現在、障害者タレントとしても活動中だ。テレビやCM出演、大学の講演などを精力的にこなしている。フリーランスのため、金銭的には不安定で、依頼が少なければ月収10万円に満たないこともある。

「今まで、誰かのお荷物でしかなかった自分が、仕事をすることで人の役に立って喜んでもらえるのがすごくうれしいんです。安定した月給をもらう仕事ではなくなりましたが、不満はないです」