プレーしながら鳥肌が立っていた

 価値観が変化した荒木選手に運命の出会いが訪れたのは、3年後の2011年。東レに復帰し、眞鍋政義監督(現ヴィクトリーナ姫路GM)から全日本の主将を託され、全力で2012年ロンドン五輪へ向かっていたころだ。

 イタリアでプレーしていたラグビー元日本代表の四宮洋平さんが、同国遠征に赴いた全日本女子チームのトレーナーを訪ねてきたのが2人の始まりだった。

「語学力とバイタリティーを駆使してニュージーランドや南アフリカ、イタリアで10年以上も暮らしていた人だけあって、“自由人”という印象を受けました」と荒木選手が言えば、四宮さんも「最初に挨拶したときから好感の持てる人でした」とストレートに語る。これを機にスカイプなどを通じて交流を持ち始め、荒木選手もスキあらば欧州へ赴き絆を深めていく。

「私には考えられない広い視野で物事を考える人。フランスでプレーしていたころは日本の高校生のフランス留学のサポートをしていましたし、スポーツはもちろんビジネスにも興味があって、世界中にいるたくさんの友人や知人に会っていろんなことを吸収していた。その経験を私に話してくれて、ホントに刺激を受けたし、精神的にも支えてもらいました」

 公私充実の主将が牽引した2012年ロンドン五輪の全日本女子は快進撃を見せた。予選ラウンドからイタリア、ロシアに苦杯を喫する苦しい滑り出しとなったが、グループ3位通過で準々決勝に進んだ。

 その一発目の中国戦。「バレー人生で最も印象に残る試合」と荒木選手自身が言い切る世紀の一戦は第1セットから28―26の大接戦になった。日本が先手を取り、2セット目を中国、3セット目を日本、4セット目を中国が取る一進一退の攻防の中、迎えた第5セット。日本は最後で相手を突き放して4強入り。メダルに王手をかけた。

「ギリギリの死闘の中、プレーしながらずっと鳥肌が立っていました。感じたことのない感覚を覚えたんです。“みんなでメダルを取るんだ”という一体感もすさまじくて、あそこまでの団結は生涯1度きりだと思いますね」

 最大の山場を乗り切った日本は準決勝でブラジルに敗れ3位決定戦に回ったが、永遠の宿敵・韓国を見事にストレートで撃破。'84年ロサンゼルス五輪以来、28年ぶりのメダルを獲得し、日本バレー復活を世界に示した。

ロンドン五輪、銅メダル獲得の瞬間(日韓戦)
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「五輪のメダルって取った自分たち以上に喜んでくれる人がいる。その事実を知って重みを再認識しましたね。それまでは“自分がこうしたい”という気持ち最優先でプレーしてきたけど、本当に素晴らしい瞬間だなと実感しました」

 その言葉の向こう側には、幼少期から支えてくれた家族や恩師、仲間、そして四宮さんの存在があった。

 ロンドン五輪の期間中に28歳になった荒木選手は、自分がこの先、どういう人生を歩むべきかを真剣に模索した。バレーは続けたいが、4年後というのはあまりに長すぎてリオデジャネイロ五輪のことは全く考えられない……。

「結婚しないか」

 プロポーズを受けたのはそんなときだった。