「オカンは憔悴しきっていましたね。当時まだ40歳くらいでしょ。連れ合いが亡くなるにはあまりにも早すぎる年齢だった。1年くらいは毎日、仏壇の前で泣いていました」

 それでも、子ども2人を抱えた母親として、じっとしているわけにもいかない。

希少がんの一種、2度の大手術

お父さんに“子どもたちを頼む”と言われたし、頑張らなアカンと自分を奮い立たせ、ガソリンスタンドで懸命に働きました。翌年には勇人も高校を卒業し、就職して家計を助けてくれるようになった。暮らしのリズムが少しずつ戻り始めました」

20代のころはバイク好きだった
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 だが、伴侶の死から2年もたたないうちに次なる試練が別所さんを襲う。

 昭和から平成へと時代が変わってすぐの1989年春、腰と足のしびれに悩まされるようになったのだ。最初は近所の整形外科やハリ治療に通ったものの、一向に改善の兆しがない。11月には歩けないほどの激痛を感じ、兵庫県加古川病院(現医療センター)に入院。「椎間板ヘルニア」と診断され、神戸労災病院に転院した。そこで4〜5か月に及んだ精密検査の結果、「仙骨巨細胞腫」と判明。聞いたこともない病名だった。

 主治医の裏辻雅章医師にはこう説明された。

「仙骨とは骨盤の中央にある骨。その周りに腫瘍ができる病です。一応は良性腫瘍とされているものの、再発しやすく、そのたびに悪性度が増していく。別所さんの場合は腫瘍によって仙骨の一部が溶けていて、足につながる神経も腫瘍に巻き込まれています」

 日本人では年間500〜800人が発症するとされる希少がんの一種。手術は翌'90年1月に決まったが、仙骨の近くには大きな血管が集まっているため、大量の輸血が必要だった。そこで2人の息子が周囲に呼びかけ、当日は60人もの有志が血液を提供。26時間の大手術は無事成功した。

「最初の3か月間はほぼベッドに横になっているだけ。5か月入院しましたけど、ひざや腰の痛みがとにかくしんどかった。そんなとき、鏡に映る自分の姿にゲンナリして、婦長さんにムリヤリ頼んで白髪染めをさせてもらったんです。それだけで気分がスッキリしました。やっぱりきれいにしていないと元気になれへん。それが自分なんです」

 こうして退院にこぎつけ、リハビリに専念したが、痛みは治まらない。徐々に激痛が走るようになり、耐えきれないほどになった。

「これは、絶対におかしい」

 異変を察知し、再び労災病院へ行くと、裏辻医師は静かにこう告げた。

「別所さん、再発ですね」

 最初の手術では神経を可能な限り残すため、腫瘍のある部分だけを切除したが、2度目はそうもいかない。「歩けなくなる」とも宣告され、セカンドオピニオンを取るべく京都大学へ。それは夫を亡くしたときの反省からだ。

「あのとき、別の病院でよく調べていたら、お父さんは死ななくてすんだかもしれない」という悔恨の念を抱き続けた彼女は、納得できる判断を下そうとしたのだ。