叩き上げの仕事人生、休む間もなく行商へ

 はつゑさんは群馬県桐生市で生まれ育った。戦争のさなか、配給制とはいえ食べ物になかなかありつけず、苦しい幼少期を過ごした。

「野生の七草やアザミを採って食べたこともあるよ。許されることではないけれど、やむにやまれず人様の家に実ったものを口にしたことだってある。お金持ちの家の庭に落ちてた栗の実を生のまま食べたり、柿を盗みに行ったり。でもうちが貧乏だって周りは知ってたから、見て見ぬ振りをしてくれたんだ

 そのような栄養事情が影響したのか、はつゑさんの母は病気がちで32歳という若さでこの世を去った。その後、はつゑさんの父親は、すぐに後妻を迎えたが、はつゑさんは奉公に出されることになった。

「10歳で子守として奉公に出されたんだよね。つらかったよ。毎晩、死んだ母親が恋しくてねえ。『学校に行かせてあげるから』と言ってくれた奉公先もあったけれど、そんな約束は守られないことがほとんど。

 ようやく『学校に行きなさい』と言ってくれる奉公先に恵まれたけれど、結局はそこの家の泣く子をあやしたり、おむつを取り替えたりに追われて、勉強についていくのが難しい。学校がつらくて、小学校にも行かなくなったんだよね」

 10代半ばになったはつゑさんは、機屋など、さまざまなお店に住み込みで働き始めた。そんななか知り合った男性と家庭を持つ。しかし夫の女性関係に悩まされ、苦しい暮らし向きが続いた。

 3人の子どもの母親となったはつゑさんは、子どもを保育園に預け、生活費を稼ぐために昼も夜も仕事をした。そして育児が一段落した後、パチンコメーカーに就職。62歳の定年まで勤め上げた。

 定年退職後はゆっくり過ごそう、と考える人も多いだろう。だが、休む間もなく、また次の仕事を見つけたい、と行動に移したのがはつゑさんのバイタリティーのすごさだ。始めたのは、なんと、これまでと畑が違う「行商」。和菓子やおかずを作って、近隣の知人に売る、という仕事を軌道に乗せたのだ。

60歳過ぎてたって、まだまだ自分は元気だし、小さいときから働いてきたから、働いてないと調子が悪くなるんだよ。次、なにやろうか、と思ったときに、食べ物屋だったら自分でできるんじゃないかと。

 魚屋で16年間働いたから、魚の目利きもできるようになってね。魚のおかずやら、畑で採れた野菜やらで、ちゃちゃっとうまいもんを作る自信があったから、なんとかなると思ったんだよ」

 お手製のおかずを段ボール箱に入れて、売り歩いた。キンピラ、サトイモ、シナチク、昆布、揚げの煮たものなど家庭料理の惣菜を1パック200円で販売。それが売れた。かたわら、時間があればチリメンのエプロンを縫う内職も続けていたという。恐れ入る「稼ぎ力」だ。

 6年間、行商を続けるうちに味が評判となり「惣菜屋ではなく食堂にしてほしい」という要望が来るようになった。「店をやるにはどうしたらいいのか」と保健所に相談しに行くと、「食べ物を扱うにはトイレと台所がないとダメ」と言われたので、すぐさま家の隣のスペースに簡易な建物を建築。惣菜の小売りを始めるようになったのだ。これがのちの食堂の原形となる。