幼いころは祖母と母が作る夕飯の大皿料理が大好きだった
幼いころは祖母と母が作る夕飯の大皿料理が大好きだった
【写真】キューバ、スーダン、ケニアの食卓、そしてコソボのお母さんの「フリア」

 4歳のとき、父の仕事の関係でアメリカに1年、家族で滞在したこともあった。その後も何度か家族で引っ越しを経験したという。

「だからですかね。わが家では引っ越ししても、単なる移動という感覚なんですね」

真っ黒になった地理のノート

 小・中学校は、信州大学の付属校に通った。本人いわく、「飽きっぽく好奇心旺盛」で、長く続いた習い事は少なかったが、両親はそれをとがめることなく、いろんな機会を与えてくれた。

「サッカーをやったり、バスケをやったり、元気な子でしたね。いろんなドリルを解くのが好きなのがわかると、どんどん買い与えてくれました」

 小・中学校は教育実験校で、「総合的な学習」の時間で経験したことが強く印象に残っているという。

「小学校の2年から6年までソバや稲、レンコンなどを育てました。レンコンが縦じゃなくて横につながっていることとか、課外授業でわかる物事が楽しいと思えました」

4歳、アメリカ在住のころ
4歳、アメリカ在住のころ

 一方で工作などの物作りにも熱中した。

「物を作ること、実験することが大好き。ペーパークラフトとか刺繍とか、フェルトの精巧なペンギンなどを作りました。小学校の実習で食品の着色料を使ってたくさんの毛糸を染めまくる、なんてこともしてましたね」

 高校は県立長野高校に進学。そこで、彼女は世界地理にのめり込む。

「もともと勉強は好きだったのですが、人生を通して地理ほどワクワクした科目はありませんでした。行ったことのない土地の暮らしが、気候区分や地質から垣間見れることに感動し、地図帳と資料集を見比べては、遠い土地の暮らしに思いを馳せました。風土などによって主食が変わったりする世界の“理”がわかるのが面白くて、地理のノートは0・3ミリのシャープペンの書き込みで真っ黒に。断片的な情報じゃなくて、その背景の暮らしが見えてきたりするんですね」

 地理に夢中になったのにはもうひとつ理由があった。

「先生がよかったから。すごく楽しそうに授業をする先生で“ああ、この先生は本当に自分のやってることが好きなんだな”と思えました」

 中東の授業ではナツメヤシの実を持ってきて、「この地域の人たちはこういうのを食べるんだよ」とニコニコ楽しそうに話してくれた。当たり前に思っていること、大して意識してなかった日常生活が「あ、そういうことなんだ」と納得できた。

 その先生こと、小山昌俊先生(58)も岡根谷さんのことをよく覚えていた。

「彼女は当時、まるで食いつくように授業を聞いていて、ずっとメモを取っていましたね。私としては、そんなに面白い話をしたつもりはないんですけどね(笑)。非常に熱心な生徒で、社会科だけでなくすべての教科にまじめでした。卓球部に所属していて、勉強と両立させてました。あの小さい身体でエネルギッシュだった印象があります」

 高校2年のとき、彼女は突然、父親に連れられて東京大学のキャンパスに行ったという。

「東京に遊びに行く、と言われたのに、そこは東大でした。それまでは東大なんて雲の上にあるものというイメージ。ところが、キャンパスにいたのは、自分と変わらない普通の学生ばかりでした。“あ、東大生って人間なんだ”と思ったんですよ(笑)」