1980年、ひな祭りコンサート。右から五輪真弓さん、イルカさん、沢田さん、久保田早紀さん、太田裕美さん、横山みゆきさん
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「沢田聖子はもう終わったんだよ」

 打ち合わせでレコード会社に行ったときの出来事は、いまだに悔しさが蘇るほどに忘れられない。

 ある日、沢田が会議室に残された書類に目を落とすと“なぜ沢田聖子が売れないか”という議題で社内の意見が書かれていた。そこには“スタッフにお茶を出すようでは、アーティストとしてのオーラを感じさせられない”との指摘があった。

 目上の人にはきちんと挨拶する。お茶碗のご飯は1粒残さず食べる。沢田は子どものころから家庭できちんと躾(しつ)けられてきた。その気遣いや礼儀正しさが仇(あだ)になっているとでも言いたげだった。

「大人たちはずいぶんくだらないことを考えているんだなとがっかりさせられ、“売れる”ってそもそもなんだろうと考えあぐねてしまいました」

 移籍当初は売り出す自信のあったレコード会社も、スタッフが入れ替わっていくうち、沢田をもてあましていた。迷走の末、アルバムのキャッチコピーに「普通さが、過激です。」とつけられたこともある。

 マネージャーにも恵まれなかった。最初についたマネージャーは恋人のところに入り浸り、地方公演への同行を平気ですっぽかした。

「ポケットに300円しかないまま電車に飛び乗り、駅で待つ現地スタッフに立て替えてもらうこともありました。お弁当が買えず、おなかをすかせたままでステージに立つこともたびたびありました」

 直談判して代えてもらった新しいマネージャーは家族愛の強い人だった。土日の仕事は絶対に顔を出さず、孤軍奮闘の日々が続いた。もっと優秀なマネージャーがつけばしなくてもいい苦労も、「売れないのが悪い」と思い込まされた。そこまで頑張っても最初の契約で決められた月3万円の給料が1年たって5万円、3年目に10万円になるくらいのもの。金銭面で不満を感じても「ヒット曲がないのが悪い」と呑み込んだ。

「世の中でたったひとり、躓(つまず)いているようで強いコンプレックスを抱いていました。だれも私のよさなんてわからない。自分でもわからない。これ以上続けてもしかたがないからすっぱり諦め、ニュージーランドでのんびりファームステイでもしようかと考えていました」

 1988年、結婚したことが沢田にとって大きな転機となる。お相手は学生時代、イルカの事務所でアルバイトをしたのち、一般企業に就職した男性。誰からも匙(さじ)を投げられるなか、彼だけは沢田の音楽を認めてくれたのだ。

 神部さんに「事務所をやめたい」と2人で挨拶に行くと、「最後のライブはいつにするか」とあっさり言われ、引き留められることはなかった。

「沢田聖子はもう終わったんだよ。レコードの売り上げもライブの動員も数字はすべて下降線。もってせいぜいあと3年だ。それでもきみは手をあげるのか?」

 神部さんが夫に向けた厳しい言葉を、沢田は黙って隣で聞いていた。