「私ではない私」に戸惑い

 デビューに向け“イルカの妹”としてのイメージづくりが始まる。ワンピースしか着たことがなかったが、イルカのトレードマークであるオーバーオールを着せられた。

「着慣れないので、トイレに行くたびに胸ポケットに入れていたものがバラバラと落ちちゃって、拾うかどうか悩みました(笑)」

1984年、新星堂で開催したファンイベントのトークライブ
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 このとき沢田は16歳の高校生。子どものころから童謡は習っていたが、譜面どおりにしか歌えない。曲をつくったこともなければ、弾き語りをしたこともない。デビューにあたり、だれか先生について特訓できるとばかり思っていたが、神部さんの指導は独特だった。レンタルスタジオで30分のライブを見立て、沢田が歌い、おしゃべりするのを1人で聞くのである。そのたびに細かく注意され、どうしたらよいかを考えさせられた。

 半年後の1979年5月、沢田は『キャンパススケッチ』でデビュー。ジャケット写真の撮影にあたってスタイリストはとくにつかず、服は原宿の古着屋で買い、髪も普段どおりだった。B面の『雨よ流して』は現代国語の授業中に書いた詩を歌にしたという。

 翌'80年の『坂道の少女』以降、『青春の光と影』『卒業』『流れる季節の中で』と、毎年1枚のペースで新作アルバムを発表していく。プロの作曲家や作詞家からの曲提供もあったが、とくに沢田自身のつくる歌がファンの心をつかんだ。思春期を過ごす「女の子」の感性がみずみずしく綴られ、日記をこっそり読んでいる気にさせられたのだ。それがプロデューサーの狙いだった。

「でも、私はあくまで素材で、神部さんの考える“沢田聖子”が徐々にかたちづくられていきました。私ではない私、虚像に戸惑いも覚えました」

 清楚でおとなしい女の子というのが沢田のつくられたイメージだったが、ラジオ放送やライブのMCでは陽気で冗談好きの素顔をふいに覗かせ、相方のアナウンサーを慌てさせる場面もあった。

 デビューする際、「3年分の青写真はできている。その間は舵取りするけれども、それから先はわからない」と神部さんにはっきり言われていた。

 ライブ終わりにいつも、4つ折りにした紙に小さな文字で事細かく書かれた駄目出しを渡された。どこでどう間違えたか、なにが問題か、演奏を録音したテープを聴いて反省させるのである。強いプレッシャーにさらされ、ライブでは観客より、神部さんばかりが気になった。