ポルノ映画の解説が原点!?

 大和田は福島の出身ではない。神奈川県の横須賀に生まれ、逗子の高校に通っていた。かつての夢は福祉の仕事に就くこと。同級生が中途失明し、頼まれるがまま手伝うようになったことがきっかけだ。

「教科書を読んで聞かせ、ポルノ映画を見ながら場面を解説してほしいと頼まれたこともありました。よがり声がすると、なんでだって聞くんです。“おっぱい、もんでんだよ”“どっちのおっぱいだ?”“右だ”“どっちの手でもんでんだ”という具合に、細かく聞いてきたりしてね(笑)。

 見えない人に状況を正しく伝えるにはどうしたらよいかを考えた経験は、ラジオの仕事で活きたかもしれませんね」

 視覚障害者の支援施設で朗読のボランティアをし、「大学を卒業したら、ここで働きたい」と館長に申し出た。喜んでもらえるとばかり思っていたが、予期せぬ答えが返ってきたという。

「本当に視覚障害者の人たちと付き合っていこうと思っているのであれば、それを生業にしてはいけません。福祉を仕事にしてしまうと、福祉本来の意味がわからなくなります。ですから、それを外から見る仕事を選びなさい」

 中央大学の法学部に進学し、一時は法律関係に進もうとも考えたが、しゃべるのが好きなことからラジオのアナウンサーを希望した。1970年代、深夜放送が流行り、ラジオは人気の就職先だった。キー局を中心に10社近くを受けたがうまくいかず、最終面接まで漕ぎつけたラジオ局も落とされた。

「推薦するから、ラジオ福島を受けてみないか」

 どうしたわけか、面接を担当したアナウンサーが救いの手をさしのべてきた。

 1977年、ラジオ福島に入社。当時は福島がどこにあるかも漠然としか知らなかった。3年ほど修業してフリーアナウンサーに転じ、東京で仕事をしようとひそかに考えていたのだという。

「気持ちを読まれたのか、歴史のある競馬場があるから、福島を好きになるには、競馬のアナウンサーがいいと先輩に言われました。4年目にようやく実況中継ができるようになり、ドラマがあっておもしろいと評判になりました。いつしか東京で仕事をしたいとは思わなくなっていました」

 1986年、アイドル歌手の岡田有希子さんが自殺し、後を追う若者が相次いだのが転機になった。担当していた深夜放送にも、自殺をほのめかす手紙や電話が届いたのである。「死ぬな、死ぬな」と必死に呼びかけても、いまひとつ手応えがない。リスナーにはいじめにあったり、親が離婚し、心に悩みを抱える若者が多かった。命の大切さをわかってもらうにはどうしたらよいかを考え、障害のある2人の難病患者と番組づくりをはじめた。視聴者から感想が山ほど届き、高校生がスタジオに遊びにくるほど人気になった。