自分の身を削って生み出していた“笑い”

 いしのようこ、優香、みひろ……数々の年下女性タレントとの浮名を流した“モテ男”の片鱗も、このころから見せていた。志村さんは高校在学中にもかかわらず、ある女性と同棲をスタートさせる。

付き人の月給は5000円。それっぽっちじゃ食えないから、彼女の実家がアパートをやっているとかで、その1室で一緒に暮らし始めて。その後、新宿に引っ越して、しばらくは仲よくやっていたんじゃないかな。その女の子の名前が“ひとみちゃん”と言ってね。志村のコントに“ひとみばあさん”というキャラクターが出てくるでしょう? その子の名前を拝借したというわけです」(当時を知る芸能プロ関係者)

 そうした女性たちとの交際がトラブルに発展したこともあったと、かつて週刊女性のインタビューで自ら語っていた。

19歳で子どもができちゃって、堕ろすことになってね。どうしようもなくて、おふくろに金を借りに行ったこともありますね。100万円。相手の子のおやじさんが、ちょっと怖い人で、誠意を見せろみたいなことですよ

 ドリフのコントよろしく、それでも懲りないのが志村さん。前出の岸田さんも、女性に軽口を叩く志村さんの楽しそうな横顔を忘れられない。

「私は25歳から10年ほど地元でピザ店をやっていたんですが、『東村山音頭』でバーンと売れた後もよく顔を出してくれて。ただ、志村が店に来るときはうれしい反面、大変でした。急いで知り合いの女の子をお店に呼ばないといけなかったのでね。アイツ、若い女の子だと、初対面でもよくしゃべるんですよ(笑)」

 ピザ店の女性客と“デキて”しまったことも。

「でも、その女性のほうが一枚上手で、別れるときに手切れ金を請求されちゃって。“200万円も取られたよ”ってボヤいてました。女好きなんだけど飽きっぽくてフッちゃう。だから長続きしなかったですね」(岸田さん)

 酒も好きだった。東京・麻布十番を、お気に入りの女性を連れて毎晩のように飲み歩く志村さんの姿は、もはや街の風景のひとつでもあった。ただそれは、ストイックなまでに“志村けんの笑い”を突き詰め続けなければいけない、というプレッシャーの裏返しでもあったのだろう。

付き人のころから、“ほとんど寝てなかった”というくらい仕事とネタ作りに追われていたからね。ほかの付き人が居眠りしている間も自分で一生懸命ネタを作って、いかりや長介さんや加藤さんに見てもらったり、自分で営業電話もかけたりしてね」(前出・芸能プロ関係者)

 努力の末に、誰もが認める存在になった。だが、その裏で、人気者になればなるほど、笑いを取れば取るほど、求める“理想の笑い”のハードルは高くなっていった。

 20代のあるとき、追い詰められた志村さんは、とうとう“事件”を起こしてしまう。

そのころ、中野ブロードウェイの上の高級マンションに住んでいた志村さんが、部屋で大酒かっくらって泥酔して、ガス自殺をしかけたことがあったんです。幸い大事には至らず、志村さんのお兄さんが迎えに行って実家に連れ戻したんだけれど、志村さんは、そこまで心身を削って自分の笑いを作っていたんですよね。“笑い”の悩みなんて誰かに相談することもできないし。そういった意味では孤独な人、だったのかな……」(前出・芸能プロ関係者)

 笑いの神様に、ひとり挑み続けた人生だった─。