玉置浩二にヒントを得た発声法

 合唱団に所属し、音大に入ってもずっと歌ってきたのにのどを壊してしまった、ということは今までのやり方ではダメなんだと悟った。

 発声に関する本は一切読まないと決め、自分の身体を実験台にして毎日いろいろな方法を試した。

 呼吸、立ち方、口の筋肉の動きまで変えてみて、自分に合う発声法を追究したのだ。

「発声法の基本として参考にしたのは、玉置浩二さんの歌い方。彼は息で歌えるんです。そこに絶対、秘密があると思った。息の声も出せるし、ストレートな高い声も強い声も出せる。まねして歌いながら、あの歌声を分解したら、最高の発声法ができるんじゃないかと研究しました」

オペラ一辺倒だった大学時代。人を笑顔にするのが大好きな堀澤には、こんなお茶目な一面も
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【写真】19歳から始めた小児病棟でのコンサートの様子

 大学卒業後、日本最古のオペラ団体である藤原歌劇団に入団。オペラやさまざまな表現を学ぶ。イタリアでの短期留学も経験した。そこで堀澤は、表現力の幅の広さを知り、また日本よりも自分の歌が評価されることに驚き、自信を取り戻したのだった。

 ところが日本に戻ると、そううまくはいかなかった。

「アルバムを作りたい」という思いで、レコード会社や芸能事務所を回り、必死に売り込んだが、なかなかいい返事はもらえない。

「このころ、まだ若くて経験の浅い自分に甘い言葉をささやく大人にうんざりして、人間不信に陥っていました」

 23歳。歌劇団だけでは食べていけず、化粧品販売や珈琲店でアルバイトをしながら、「仮歌(かりうた)」などの仕事もした。楽譜の読めない声優が新曲を歌うためのお手本として、仮に歌をレコーディングする仕事だ。作詞の仕事もあったが、あくまで裏方の仕事でしかなかった。

 一方、少年との出会いをきっかけに、堀澤は小児病棟に歌を届ける活動を熱心に続けていた。

 ある日、「ホスピスでも歌ってみたら?」と声をかけられたが、死と向き合う人たちを前にしたら泣いてしまうと思い、踏みきれなかった。しかし友人の「歌うといつも泣いちゃうんです、と言えばいい」という言葉に背中を押されて挑戦してみた。

「死を告知された人は強い。肝の据わった強さにこちらが励まされるくらいでした」

 堀澤は、小児病棟やホスピスに歌を届けるうち、プロになりたい、という思いを強くしていった。

「それまでは自分の歌はお金をもらう価値があるのか……と悩み、歌で対価を得ることにはどこか抵抗がありました。でも、歌うことで人を笑顔にできるとわかった。私は歌を通して人を幸せにできるんだと実感しました。世界中に歌を届けるには資金がいる。そのために、私はプロになろうと決心したのです。子どものころに思い描いたように、歌で人を幸せにするためにはプロとしてやっていくしかないと思ったのです」